すなわち、金勝寺と常楽寺との間に替山があり、金勝寺浄土会の荘厳頭役祈所たる高塚山南谷が「常楽寺御本尊」に寄付され、荘厳頭役が免ぜられたのである。
前者については、常楽寺に延慶二年(一三〇九)三月二十七日の「相替山事(あいかえるやまのこと)」なる文書がある。それによると、東坂村中が円心坊から買得していた鳥四郎山(東は常楽寺の林に接し、南は因幡山の水流、西は中尾水流、北は阿定坊山水流で画されていた)と、常楽寺が買得していた正覚寺山とを、常楽寺側は名田(みょうでん)一所をも付け加えて、相互の便宜を考え、交換している。
後者に関する文書は元徳(げんとく)二年(一三三〇)七月のものである。金勝寺境内の高塚山南谷が金勝寺浄土会の荘厳頭役料として常楽寺に与えられていたが、元徳二年をもって常楽寺本尊に寄付され、荘厳頭役が免ぜられた。常楽寺が鎌倉時代後期に金勝寺浄土会荘厳頭役を勤仕していたこと、また金勝寺が頭役料所を常楽寺に寄付し、頭役その他の所役を免除したことなどは、金勝寺に対する常楽寺の立場、地位を示唆していて興味深い。鎌倉時代後期には常楽寺の地位が向上していたことがうかがえるのである。
また、常楽寺には、南北朝時代に聖護院門跡(しょうごいんもんぜき)の祈祷所として、同門跡の繁栄を祈っていたことを示す文書がある。すなわち貞和五年(一三四九)十二月十六日の「聖護院殿毎年御巻数(ごかんず)目録案」によれば、このころ毎年「御門跡御繁昌御祈祷」のため、長日の大般若経転読、不断の法華三昧勤行、一夏(いちげ)の供花、四季の尊勝陀羅尼一千遍、七日間不断の光明真言などの唱誦を勤め、その「祈祷勤行」の目録を一枝に懸けて、門跡御殿へ奉呈している。
聖護院は、いうまでもなく、天台宗寺門派であり、修験道では本山派の拠点寺院であるが、常楽寺と聖護院との関係について、その成立期や事情について詳しいことはわからない。ただ、正和二年(一三一三)に常楽寺と、延暦寺根本中堂末寺の善水寺(甲西町岩根(いわね))との間で諍論が平じ、常楽寺の寺僧が散所(さんじょ)法師の住宅に侵入放火し、狼藉をなしたので、守護京極冬綱が檜物荘預所に対し糺明を命じたことがあった(『常楽寺文書』)。この常楽寺と善水寺の対立は、伏見上皇の院宣(いんぜん)が聖護院宮に申入れられる形で、解決したようであった(同上)。このような経緯をみると、常楽寺は聖護院宮に有利になるよう取り計らってもらおうとし、これ以後、聖護院門跡に祈祷巻数目録を献上するようになったのではないかと思われる。
写45 善水寺(甲西町) 元亀2年(1571)の織田信長の兵火をまぬがれ、大規模な本堂が今に残る。
常楽寺と聖護院との結びつきについて無視できないのは、阿星山、飯道(はんどう)山のルートに介在する山伏、修験者ではないかと思う。甲賀郡内の飯道山は神体山として古くから信仰を集め、式内社甲賀郡八座の一つである飯道神社、また神仏習合思想を背景に飯道寺も開かれていた。飯道山は郡内屈指の修験の山であり、阿星山もまたそうであった。
飯道寺には、斉衡(さいこう)二年(八五五)比叡山の光定(こうじょう)が入山してより天台宗となり、また聖宝(しょうぼう)が修験道を再興したとき、飯道寺の第三代安峰(あんぽう)に熊野三山などを管掌させてから修験道が伝わり、それ以後、当山派、三宝院門主の先達をつとめた、との寺伝がある。また飯道神社への登山口はいくつかあるが、甲西町針(はり)に飯道(いいみち)神社があって、ここが里宮であるから、飯道神社への道は本来こちらの方が表参道であった。常楽寺はこの表参道へつながるルート上にある。
鎌倉時代末期ないし南北朝時代に、常楽寺が聖護院と関係があったのは、ひとつには修験道によってである、といえよう。さらに室町時代になると、常楽寺は三重塔内に真言八祖像が描かれるなど、天台・真言兼修の観を呈してくるが、それは飯道山修験が常楽寺に流入してきた結果とみることができるのではなかろうか。