延文の炎上と再建

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行胤上人の再興から二〇〇余年経った、延文(えんぶん)五年(一三六〇)三月二十六日、雷火によって堂塔僧房三〇余宇を焼失した。再興の勧進状には、
時に、白日の煙雲に隠るや、面(かほ)を一寺の滅亡に覆うが如く、青嵐の檜杉に咽(むせ)ぶや、声を諸人の愁吟に合わすに似たり。況んや、衆徒悲しみを含み、人倫の有情、周章(あわて)ざる者なき也。御願を何處(いずこ)に勤め、行法を那地(いずち)に移さん。前後に迷いてただ両襟を潤し、居諸(つきひ)を送るのみ。

と、悲歎にくれる寺僧、衆徒の様子が書かれている。焼土に悲涙を流し、滅亡ともいうべき寺運を回生せんがために、衆徒は直ちに評議し、
徒(いたず)らに礎石に対して一寸の腸を摧(くだ)かんよりは、遠近に勧めて、再興の謀(はかりごと)を廻(めぐ)らさんにしかじ。かつは勧進の例に任せ、かつは奉加の志により、寸鉄尺木これを嫌うべからず、一紙半銭これを賤むべからず。まさに一簀(き)の太山の基をなすに類すべし。

(原漢文)

と、勧進によって再興することに決した。かくして、阿闍梨大法師観慶(かんぎょう)が勧進聖となり、同年七月に、「特に十方檀那の助成を蒙り、再び当寺廻禄(かいろく)堂宇を起立し、すなわち本尊・免難の形像を安置し、鎮(つね)に国家を祈り、遍ねく人民を益せんことを請うの状」、いわゆる「常楽寺勧進状」がつくられた。
 再建の勧進活動や造営の経過を具体的に示す史料は遺されていない。しかし本堂は、延文五年を去ること遠くない時期に竣工したと考えられる。勧進状には「然らば則ち結縁の緇素(しそ)、奉加の貴賤、千眼十面(一脱カ)の擁護により、歓娯萬秋の日月を現じ、起塔造寺の功福に酬(むく)われ、まさに九品(くぼん)の刹土(せつど)に遊ぶべし」とあり、文中に「起塔造寺」の文字がみえるが、延文災禍後の復興では塔の再建はなかった。塔が造営されたのは、後述のように、およそ四十年後の応永(おうえい)七年(一四〇〇)であった。
 このとき再建された本堂が今に遺るもので、後世に修理の手が加えられているが、規模、構造に大きな改変はなく、再建当初の遺構をよく伝えている。室町時代における和様本堂の代表的建造物として、高い価値がある。なお仏壇正面に安置されている厨子も、本堂造営と同時の製作とみられている。