さらに、これよりさき応永五年(一三九八)二月の「三重塔勧進状」があり、それには次のように記されている。
右当院(中略)ここに一堂につき傍らに三重塔あり。歳月久しく積もり棟梁空しく摧(くだ)けり。行胤上人の本堂再興の時に逢い、文永 聖主(亀山天皇)の当寺崇敬の代に当るも、塔婆の建立なきを恨み、徒(いたず)らに基趾の荒蕪を餘す。これを観るに心傷み、これを悲しみ頬を〓(ぬら)す。しかる間、去年、鎮地の大法を修し、即時に立柱の厳儀を祝う。寺用の所覃(しよたん)を盡すと雖も、なほ梓匠(ししよう)の未作あり。偏えに貴賤の合力を仰ぎ、併せて遠近の芳縁を求む。一紙半銭を嫌わず、寸鉄尺木を憚るなかれ。海の深さは即ち細流の積むところ、山の高きも即ち微塵のなすところ。貴き哉、憑(たの)もしき哉、励まざるべからず。(下略)
応永五年二月 日 江州甲賀下郡常楽院沙門慶禅 敬って白す
応永五年二月 日 江州甲賀下郡常楽院沙門慶禅 敬って白す
(原漢文)
これによれば、塔址のみあって、永らく造営の機会なく、ついに応永四年(一三九七)に慶禅が地鎮と立柱の式を挙げた。ちょうど足利義満が北山第(金閣)を造営した年である。ところが寺の用途金が不足し、工匠の代銀も払えない。そこで残余は諸人に奉加を仰ぐことにしたというのである。
かくして翌五年二月に勧進状がつくられ、それより三年、工を起してから四年の歳月を経て竣工に至ったのである。造塔事業に尽瘁した慶禅は、常楽院曼荼羅(まんだら)の銘札に「常楽院江州甲賀郡権律師慶禅」とある人物と同一であろう。
塔は、本堂に向って左手の山畔にあり、東面して屹立(きつりつ)する。後補はきわめて少なく、全体として応永再建当初のままと認められている。建立年代の明らかな和様三重塔として、また室町前期の塔内荘厳の多様性をよく留めているなど、貴重な遺構である。
写46 常楽寺三重塔丸瓦・平瓦箆書