まず十六羅漢像(じゅうろくらかんぞう)(重文)であるが、絹本著色(けんぽんちゃくしょく)とし、現在は板額装となるがもとは掛幅装であった。一六幀(ちょう)の全てが残るのはさいわいである。
十六羅漢図は中国では唐代以降よく描かれたようであるが、我国においては京都・清涼寺(せいりょうじ)を開いた〓然(ちょうねん)が入宋(にっそう)求法の旅から将来したものが最初とされる。十六羅漢は釈迦の付嘱(ふしょく)を受けて正法の護持にあたる人々で、いわば僧侶が規範と仰ぐべき存在である。その図が天台ないし禅宗系統の寺々に伝えられていることが多いのも、自力作善(じりきさぜん)の行を重視する僧侶達の尊崇の対象となったためであろう。
十六羅漢図には奇異な風貌を強調する禅月大師様(ぜんげつだいしよう)、南宋以後に流行した李龍眠様(りりゅうみんよう)などの系統もあるが、長寿寺本は聖衆来迎寺旧蔵の東京国立博物館本などと同じく、それらとは異なって唐代の羅漢図の伝統につながるものである。ただしその描法には東博本のようなおおらかさはなく、人物が大きくなる一方でその分だけ背景の奥行きが失われ、個々の描線にもかたさのあることは否めない。時代的に東博本より相当下って、一三世紀の制作と考えられる。
また長寿寺には県指定文化財の観経変相図(かんぎょうへんそうず)が二幅あるが、そのうち小幅の方が時代的にはやや古いものである。
本図は観無量寿経の内容を絵解きした観経変相図のなかでも最も整った形式をもつ当麻曼荼羅(たいままんだら)の一本で、直接的には唐の善導の著した観経四帖疏(かんぎょうしじょうしょ)に依拠しており、その原本の成立も唐代にさかのぼる。我国においては、奈良時代の作とも唐からの舶載品ともいわれる奈良・当麻寺の織成(しょくじょう)当麻曼荼羅が最古の遺品である。この図は長い間孤高の一本であったようだが、鎌倉時代になって法然の高弟証空(しょうくう)がこれを再発見し、縮写本・版写本などを多数制作して各地に安置したことにより、一挙に広まるようになったといわれる。事実、鎌倉時代以降の作品は現在もなおたくさん見出される。
中央には阿弥陀三尊を中心に華麗な極楽浄土の光景を描き、向かって左の縁には王舎城(おうしゃじょう)の悲劇と韋提希夫人(いだいけぶにん)が釈迦に浄土への往生の法を問うに至るまでの因縁譚(たん)、右の縁には一三の浄土観想法、下の縁には生前の功徳に応じた九種の往生(九品(くぼん)往生)が表される。中央縦に大きく亀裂が走るなどけっして状態はよくはないが、阿弥陀三尊をはじめ諸尊の像容は古様を保ち、暖色系の顔料(がんりょう)を多用した賦彩法(ふさいほう)がおだやかな雰囲気をかもしだして、竪一三〇・五、横一一二・〇センチメートルの小幅ながらなかなか優れたできばえである。制作期は鎌倉後期と考えられる。
長寿寺の絵画の中で異色を放つものとして、聖観音曼荼羅図(しょうかんのんまんだらず)も忘れることはできない。竪一一四・〇、横八五・〇センチメートルの掛幅で、三幅一鋪、絹本著色の作品である。中央上段には、左手に蓮華の茎を握り、右手をその蓮華に添え、蓮華座上に結跏趺坐(けっかふざ)する聖観音を描く。下段向かって左には〓〓座(くゆざ)に蹲(うずくま)る牛にまたがった大威徳明王(だいいとくみょうおう)、右には瑟々座(しつしつざ)上に坐す不動明王を配している。
鎌倉時代以降、台密(たいみつ)・東密(とうみつ)を問わず密教絵画はきわめて多様な展開をとげており、所依となった儀軌(ぎき)を発見できず、また類例を見出すこともできないものも数多い。本図もその一例であり、思想的な背景の解明は今後の課題とせざるをえない。衣文線などにはやや形式化したところも感じられるものの、とくに聖観音の肉身部や蓮華座の花弁にみる照り隈(てりぐま)を効果的に用いた暈〓法(うんせんほう)(色の濃淡やぼかしなどによって立体感を表す手法)には、豊醇で暖かみのある藤原時代の仏画の色彩感覚すら認められ、注目される。鎌倉時代にさかのぼる佳作とみてよいだろう。
つづいて常楽寺の作品群にも目を向けよう。最初に恵心僧都源信筆の伝をもつ浄土曼荼羅図(じょうどまんだらず)(重文)である。指定名称は浄土曼荼羅だが、左右の縁に序分義(じょぶんぎ)と定善義(じょうぜんぎ)(十三観)、下縁に九品来迎図(くぼんらいごうず)を配し、明らかに当麻曼荼羅形式の観経変相である。現状では横長の画面だが、これは上部の切断によるもので、虚空段(こくうだん)などが失われてしまっている。しかし観音・勢至(せいし)両菩薩をはじめ諸尊の像容には古様が残り、優れた絵師によって筆写されたと想像される。この時期に多く模写されて流布した当麻曼荼羅のなかでも優品のひとつといえる。
次に仏涅槃図(ぶつねはんず)(重文)はほぼ方形の画面をもつ一幅で、残念ながら少し痛みが目立つ。画面中央やや下方に横たわる釈迦を、向かって右上方より俯瞰(ふかん)する構図である。仏涅槃図は二月十五日の涅槃会の本尊として奉懸されるもので、特に宗派をかぎることのない普遍的な画題であった。現存最古の作品は高野山金剛峯寺(こんごうぶじ)の有名な応徳(おうとく)年銘をもつ涅槃図(一〇八五年成立)であるが、この図に代表されるように、古式の涅槃図は釈迦如来が中央に大きく、したがって近接的に描かれること、画面が方形ないし横長であること、動物の数が少ないこと、釈迦が右手を身体に沿って伸ばして横たわることなどを特徴とする。これがのちには縦長の画面となってゆき、遠方から俯瞰する構図が採用され、雑多な諸動物が描かれ、釈迦は右腕で手枕をするように変化してゆく。構図および図像的な展開と制作の実年代とは必ずしも一致しないが、少なくとも表現形式のうえでは、常楽寺本はちょうどその過渡的な様相を呈するものといえよう。
涅槃図は釈尊の生涯の物語、すなわち仏伝(ぶつでん)の最後の一場面を描いているが、これに対してその生涯から八つの有名な場面を抜き出して表現するのが釈迦八相図(しゃかはっそうず)である。常楽寺の釈迦八相図(重美)は全八幅中七幅が伝わり、それぞれ兜率天(とそつてん)、下天托胎(げてんたくたい)、出生(しゅっしょう)・試芸(しげい)、歓楽(かんらく)・山中苦行(さんちゅうくぎょう)、降魔(ごうま)・労度叉(ろうどしゃ)、頻王帰仏(びんおうきぶつ)・成道観照(じょうどうかんしょう)、初転宝輪(しょてんぽうりん)・三道宝階(さんどうほうかい)を表し、涅槃場面が失われている。実際の制作年代は鎌倉時代も末期であろうが、各幅の上部中央に設けられた色紙形は、今は残らない平安時代の堂塔壁画として描かれた釈迦八相図の伝統を伝えるものと考えられている。
最後に釈迦如来及四天王像(しゃかにょらいおよびしてんのうぞう)(重美)は、施無畏(せむい)・与願印(よがんいん)を結び、二重円相光(にじゅうえんそうこう)を背負って蓮華座上に結跏趺坐(けっかふざ)する釈迦如来を中心に、画面四隅に四天王立像を配する。諸尊はいずれも正面向きに描かれ、曼荼羅風の構成である。四天王はいずれも左手に戟(げき)をとるなど右手の持物を除けばほぼ同一の姿勢を示すが、特に注目されるのは、四体とも正面向きに蹲った邪鬼(じゃき)の上に乗り、また肩に布を巻き衣の袖を長く垂らして直立している点であろう。これらのことは、彫刻作例ながら古く白鳳時代(はくほうじだい)の法隆寺金堂四天王像や当麻寺金堂四天王像などを想起させる。詳しいことはよくわからないが、何か古い図像を典拠としたものかと思われる。成立期は鎌倉時代でもやや下った時期であろうが、図像学的なアプローチによる好個の研究対象といえよう。
写48 常楽寺釈迦如来及四天王像