彫刻

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彫刻のジャンルでは、平安時代のような大作がみられなくなる一方で、バラエティーに富んだ尊像があらわれてくる。全体を通観していえることは、運慶(うんけい)・快慶(かいけい)らにはじまる慶派仏師(けいはぶっし)の作が今のところ確認できないこと、また作品が鎌倉初期と末期にかたよって、中期の作に充実したものを見出すことができないという点などであろう。しかし今後の調査の徹底によって、この事実は訂正される可能性も考えられる。ともあれ、順に現存作例を検討していきたい。
 真明寺(しんみょうじ)の聖観音立像は像高六一・三センチメートル、体幹部をヒノキの前後二材矧(ぜんごにざいはぎ)とし、また三道(さんどう)下にて割首(わりくび)としている。左手屈臂(くっぴ)して未敷蓮華(みぶれんげ)をとり、右手も屈臂して胸前にて第一・二指を相捻ずる印相(いんぞう)は、横川中堂(よかわちゅうどう)の本尊聖観音立像をはじめ天台系の観音に多くみられる。すらりとした細身の体躯で、腰をわずかに左にひねって蓮華座上に立つ。

 


写49 真明寺聖観音立像 頭部(左)・背面(右)

 眼を伏せかげんにして小さな唇に笑みをたたえた可憐な表情、動きの少ない体勢や浅めにととのえられた衣文(えもん)形式など、藤原時代の余風を感じさせる造形である。ただし、目じりがやや切れ上がる点、裳(も)や条帛(じょうはく)の折返しの先端部が鋭くとがる点など、ある種のきつさがあらわれてきていることも否めず、造像期は鎌倉時代の初頭と考えるべきであろう。なお体部前面には点々と小孔がみえるが、虫孔に加えて、かつて瓔珞(ようらく)を留めた痕と考えられるものも混じっているようである。
 常楽寺本堂には、その後陣の壇上にも諸仏が安置されており、向かって右方に像高五八・〇センチメートルの地蔵菩薩(じぞうぼさつ)が立っている。後補の漆箔と彩色のため詳しいことはわからないが、一木造で内刳なく、彫眼の像である。左手屈臂して宝珠を持ち、右手は垂下して掌を前に向ける。体奥うすく、つとめて衣文を省略する形式も十二世紀には多いが、頭部の造形に藤原風の穏和さが感じられず、鎌倉初期の造立と推測される。
 さて常楽寺の仏像といえば、なんといっても二十八部衆(にじゅうはちぶしゅう)(重文)が有名であろう。本尊の厨子の両側に、千手観音の眷属(けんぞく)である二十八部衆と風神(ふうじん)・雷神(らいじん)像が上下三段に整然と配される。いずれもヒノキの寄木造で、玉眼(ぎょくがん)を嵌入(かんにゅう)し、彩色仕上げとする。像高は最大のものでも一〇〇・五センチメートルにすぎない。
 これらのうち婆藪仙人(ばすうせんにん)像をはじめ七躯に胎内墨書銘があり、徳治(とくじ)三年(一三〇八)、延慶(えんきょう)三年(一三一〇)、正和(しょうわ)三年(一三一四)等の鎌倉末期の年紀や、造立の仏師法橋永賢(ほっきょうえいけん)・永舜(えいしゅん)らの名が知られる。当寺には後述する勧進状(かんじんじょう)三巻(重文)が伝わるが、そのうち延慶元年(一三〇八)の奥書のある一巻は二十八部衆造立の勧進を内容としており、右の造像銘とよく符合する。
 千手観音とその眷属として風神・雷神とともに二十八部衆を造立した例というと、京都・蓮華王院(れんげおういん)(三十三間堂)の諸像が想起されよう。蓮華王院像の造像期については必ずしも定説をみないが、少なくとも鎌倉中期を下ることはなく、鎌倉彫刻の盛期の作だといってよい。これに比べて常楽寺像は、その法量の違いもさることながら、すでに鎌倉盛期の清新な気風を失って形式化した表現に終始し、芸術性という点では数段劣るといわざるをえない。しかしながらこれだけ多くの像がほとんど一具に近い状態で残っていることはあまり例がなく、後補されがちな持物(じもつ)や台座なども多く当初のものを伝えているなど、その史料的な価値はいささかもゆるぎないものといえよう。
 残念ながら近年の盗難によって今なお二躯が行方不明で、また現存する諸像のうち他からの転用と考えられる二躯は重文指定からはずされている。
 常楽寺本堂後陣にはこのほか厨子に納められた慈恵大師像(じえだいしぞう)がみられる。一木造、彩色、彫眼として、背面より内刳(うちくり)して背板(せいた)をあてる。腹前にて左手に独鈷杵(どっこしょ)、右手に念珠(ねんじゅ)をとる通形の姿であるが、他の慈恵大師像ほど異相を強調しない。像高三〇・六センチメートルの小像で、鎌倉末から南北朝頃の造立であろう。慈恵大師良源(りょうげん)の肖像は護法神的な信仰のもとに、鎌倉時代以後、多くの天台寺院に造立・安置されている。