彫刻の項でも少しふれたが、この時期の書蹟としては常楽寺の勧進状(重文)がある。時代順に記すと、延慶元年(一三〇八)六月十八日の奥書をもつ二十八部衆造立勧進状、延文(えんぶん)五年(一三六〇)七月の僧観慶(かんぎょう)による勧進状、応永(おうえい)五年(一三九八)の僧慶禅(けいぜん)による三重塔勧進状、計三巻である。いずれも本紙は三紙(当初部分のみ)からなり、金銀砂子(すなご)を散らし、草花などを描いた上に墨書している。これらによって二十八部衆造立や本堂・三重塔再建の経緯と年時が判明するのみならず、草創にまつわる寺伝や平安・鎌倉時代の動向もわずかながら記されており、これ以前の文献をもたない常楽寺にあって、最古かつ最重要な文書といえよう。その詳しい内容については本章第三節などに説かれたであろうから、ここでは省略にしたがう。
この勧進状の附(つけたり)として重文指定されているものに銅仏餉器(どうぶつしょうき)がある。仏餉器は仏餉鉢、洗米鉢などとも呼ばれ、神仏の前において賽銭や洗米をうけるための器で、特に修験道の関係でよく用いられたようである。高台や三脚のつくものもあるが、本品はそのいずれももたない。高一三・五、口径三三・五センチメートル、その刻銘によって元応(げんおう)二年(一三二〇)に当初より常楽院(常楽寺)の什物(じゅうもつ)として造られたことがわかる。
このほか常楽寺には鳴器(めいき)の一種である磬(けい)などにも鎌倉時代の優品が見出せ、さすがに大寺の名に恥じない。今後の調査如何によっては、さらに貴重な資料の発見される可能性も考えられよう。
写50 常楽寺銅仏餉器