応仁・文明の大乱期において、京極持清が東軍に、六角高頼が西軍に属したことは、先に述べたところであるが、同じ六角家内部でも高頼とその従兄の政堯(まさたか)は、家督争いから不和となり、政堯は京極持清と共に東軍に与(くみ)した。以降、政堯は文明(ぶんめい)三年(一四七一)十一月に、高頼に攻撃されて、清水城(愛知郡湖東町)で自刃するまでの間、京極氏と共に高頼と闘うこととなったのである。
東軍方は、近江国内の西軍勢力を弱体化させる一策として、応仁二年十二月に近江国守護職を六角高頼から奪い、政堯に補任したのであった。これには、四職の一家として幕府内部に浸透していた持清の力が働いたと思われるが、その結果、高頼と政堯の守護職をめぐる激しい争いが続いた。
持清・政堯連合軍は、高頼軍と交戦を続け、同二年十一月、高頼は居城観音寺城(蒲生郡安土町)を追われたが、なおも山間部を根拠にして、ゲリラ戦を展開した。甲賀郡の土豪山中太郎や望月弥太郎らに、恩賞の地を宛行(あてが)っているのは、その証左である(『山中文書』・『望月文書』)。
文明五年(一四七三)十月、高頼は延暦寺領押領のため、山門より訴えられたが(『東寺執行日記』)、以後数年にわたって、近江国内の寺社・公家・幕府領を押領し続けたのであった。応仁・文明の大乱は、荘園体制崩壊の契機といわれているが、近江の場合、京都に隣接し、肥沃な土壌であるがゆえに、遠国の場合にみられるなされるがままの押領とは違って、少しでも財源を失うまいとする勢力が残存している地域であった。それゆえに、高頼の侵略は弱体化したとはいえ、権門側と正面きって対立する結果となったのである。