六角征伐

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高頼による幕府御料所の押領は、将軍足利義尚(よしひさ)の近習たちにとって、大きな痛手であった。なぜなら将軍と身近かな存在にあった側近衆である奉公衆(ほうこうしゅう)たちは、自分たちの失地回復こそが、重大な課題であったからである。他の有力守護たちが、さして気乗りしなかった反面、奉公衆たちが率先した六角征伐は、彼らの私怨と利害関係が表面化したものにほかならなかったのである。

写53 足利義尚像 長享元年(1487)9月12日、六角高頼討伐に向かう義尚出陣の姿を描く(名古屋市地蔵院所蔵)。

 こうして、長享(ちょうきょう)元年(一四八七)九月十二日、将軍足利義尚率いる軍勢が京を出発し、坂本に着陣した。義尚の出立ちは、目をみはるものであったらしく、特に色鮮やかな備えは、人々を驚かせた。「常徳院江州動座当時在陣衆著到(じょうとくいんごうしゅうどうざとうじざいじんしゅうちゃくとう)」によると
香の御袷(あわせ)に、赤地の錦の桐唐草の御鎧直垂(よろいひたたれ)に、白綾の御腹巻に、御腰物(こしのもの)は厚藤四郎吉光なり、并(ならび)に金作の御太刀なり、廿四さしたる矢のうち、くろの御矢、上に帯びるは引かざるなり、御鞭は三所藤なり、みたらしは重藤(しげとう)なり、豹皮の御連貫(つらぬき)に、御馬は河原毛なり、梨地の御鞭なり、

と記されており、豪華絢爛な義尚の出陣ぶりを余すところなく伝えている。軍勢は数千を数えたといわれ、あたかも幕府そのものが近江へ移動したかと思われるほどであった。義尚は坂本で遅参した管領畠山政長や細川政元と合流し、同月二十日、細川方は水路で志那(しな)・山田(草津市)に渡り、一方幕府勢は坂本から陸路で瀬田を経て進撃し、細川方と呼応して六角方の山中橘六の守備する志那・山田の諸港を攻撃した。
 これに対し、六角方はさして抵抗もせず、同月二十四日、観音寺城(安土町)にいた高頼は、日野川沿いに三雲(甲西町)へ逃げ、また六角被官の金剛寺城(近江八幡市)の九里(くのり)氏や八幡山城(同市)の伊庭(いば)氏も、いち早く逃亡してしまった。しかし同日、甲賀に逃げ込んだ六角軍が、急遽反撃に転じ、深追いした幕府軍の仁木貞長(にきさだなが)や伊勢貞陸(さだみち)らと合戦に及び、この時貞長は討死してしまった。
 こうして、義尚は対六角戦に対する前線基地として、同年十月四日、坂本を出て安養寺(粟東町)に陣をはった。二十七日には、さらに安養寺北西一キロメートルの鈎(まがり)にある真宝館に陣を移した。ここは山徒真宝坊の居館で、幕命によって召し上げられたものである。本丸・二の丸・三の丸からなり、堀・土手に囲まれてはいたが、寺域に手を加えた城郭に過ぎなかった。しかし、ここに直臣や有力守護を置き、みるみる間に寒村は小幕府と化したのであった。義尚は以後、長享三年(一四八九)三月、二十五歳の若さで没するまで、この陣所で過ごした。

写54 鈎の陣跡(栗東町) 義尚が本陣を置いた鈎の陣跡には、現在永正寺が建つ。近辺には、本丸・三の丸・曲場の字名が残る。