甲賀武士

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甲賀郡の山中に潜み、反撃のチャンスをうかがっていた六角軍は、長享元年十二月になって甲賀山中から幕府軍が撤兵し始めたころ、突如として鈎陣中に夜襲をかけた。『後法興院記(ごほうこういんき)』同年十二月三日条によると、「昨日、甲賀の諸勢、開陣の處へ、牢人数千蜂起し、頗(すこぶ)る難儀に及ぶと云々」とあり、また『甲賀二十一家先祖書』の中の「甲賀二十一家之由来」には、「六角高頼朝臣、甲賀之城主等を以て、先手として夜討也。此合戦に甲賀士五十三人の内、二十一人軍功著によりて、世に之を二十一家といふ」と記されており、六角高頼に従軍した甲賀武士たちの動向を知ることができるのである。特に高頼にとって甲賀の地は、逃避地として重要な位置であり、また甲賀郡内の土豪衆として結束を図る甲賀武士たちの活躍は、高頼方の軍事力に欠くことのできぬものであった。幕府の陣中を襲うことができたのも、その証左といえよう。
 さて、鈎陣中を攻撃した甲賀武士については、甲賀五十三家のうち二十一士が殊勲者として伝えられている。五十三家とは中世以降、小農民の急成長の中で生まれてきた名主層で、甲賀郡域に点在し、その地においては勢力をたくわえ、特に戦国期において守護六角氏の麾下(きか)に属して奔走した。『青木八郎右衛門家文書』(甲西町)の「甲賀侍五十三家」によると次の名前が知られる。
大原源三 鵜飼源八 佐治河内 内記伊賀 望月出雲 服部藤太夫 神保(じんぽ)兵内 岩室(いわむろ)大学 和田伊賀 芥川(あくたがわ)左京 上野主膳(しゅぜん) 大野宮内(くない) 美濃部源五 伴左京 隠岐左近 大河原源太 頓宮四方助(よもすけ) 高峰蔵人(くらんど) 瀧勘八 山中十郎 池田庄右衛門 高山源太左衛門 多羅尾四郎兵衛 夏見覚内 岩根長門 野田五郎 青木筑後 葛木丹後 小川源十郎 上山新八郎 儀俄越前 黒川久内 中山民部 高嶋掃部(かもん) 杉谷与藤次 山上藤七 宇田藤内 鳥居兵内 三雲新蔵人 大久保源内 小泉外記(げき) 土山鹿之助 八田勘助 倉智右近 針和泉 饗庭(あいば)河内 杉山八郎 牧村右馬 上田参河 平子主殿(とのも) 新庄越後 高野越後 長野形(刑)部

 以上の交名(きょうみょう)は、六角高頼方に従軍した者たちである。それぞれの本拠とする場所を示したのが図37である。この五十三家のうち、服部・青木・内貴の三家は、石部町内に住居を構えていたことがわかる(後述)。

図37 甲賀53家分布図(小泉・饗庭は所在不明)

 なお甲賀武士の評価については、貞享(じょうきょう)年間(一六八四~七)に編さんされた近江の地誌として有名な『淡海温故録(たんかいおんころく)』に、次のように記されている。
甲賀武士は、累代(るいだい)本領を支配し、古風の武士の意地を立て、過奢(かしゃ)を嫌い、質朴を好み、大方(おおかた)小身故に地戦計(ばか)りに出つ。然れども一分一並の武勇は嗜(たしな)み、故に皆今の世迄相続し、家を失わず、国並の家々とは各別の風儀なり。世に甲賀の忍(しのび)の衆と名高く云ふは、鈎陣に神妙の働あり。日本国中の大軍眼前に見及し故、其以来名高く誉(ほまれ)を伝えたり。元来此忍の法は、屋形の秘軍亀六の法を伝授せし由なり。其以来、弥(いよいよ)鍛練して伊賀甲賀衆誉多し。甲賀五十三家の目あれど、其家詳(つまびらか)ならず云々。

 甲賀武士の姿を主観的ではあるが、おおかたのところは、言い得ているであろう。従来指摘されているが如く、都に近く情報が入手しやすいわりには、山間部にあり、そして常に合戦に関わってきた経験は、後世「甲賀者(もの)」などと呼ばれ、忍衆にも発展した要因を十分に理解できよう。
 さて、話は元に戻るが、鈎陣に本拠を据える幕府軍は、六角高頼攻撃を本格的に再開することなく、ずるずると日を過ごしていた。この間に、高頼方が甲賀郡中にて戦力を増強し、反撃体制を整えていたことはいうまでもなかろう。一方、幕府軍の総帥である足利義尚の態度に至っては、まさに地に落ちたものであった。長享二年(一四八八)三月から病状が思わしくない原因は、義尚の酒色にあった。戦陣というのにかかわらず、連日和歌や宴遊にあけくれ、その酒宴と荒淫のくり返しは、兵の士気にかかわる以上に、義尚の体に災いした。ついに、翌延徳(えんとく)元年(一四八九)三月、義尚は、鈎の陣中に没したのであった。二十五歳という若さであった。
 しかしこのような結末を迎えるや、将軍あっての近習たちは、たちまち総崩れとなった。特に近江国守護という異例の抜擢をされた御供衆の結城尚豊(ゆうきひさとよ)などは、出奔するといったありさまで、将軍側近衆偏重の幕府軍の脆弱さをさらけ出す結果となったのである。このようにして、幕府による六角征伐の第一次出兵は、さしたる成果もあがらず、終わりを告げるに至ったのである。