さて先述した甲賀武士については、彼らは郡内に連合組織としての郡中惣(ぐんちゅうそう)を形成していた。惣とは、中世社会に現れた村落共同組織をいうが、この甲賀郡内にみられる地侍層による惣とは、単に村落内部での自治的組織にとどまるものではなかった。それは各地域内における地域権力者として、独自の支配構造を確立した中間層の集合であった。そして、対外的には防衛を、対内的には経済的協調を図り、郡内部の調整を怠らなかった。
郡中惣の中でも、勢力を有していた山中氏については、同氏の土地買得や高利貸活動が注目されるが、これらも独自の在地秩序をたてることによって、地域権力者として発展してきたのであった。山中氏は、鈴鹿峠のふもとの山中村(土山町)を本拠とし、同村の地頭職にあって、鈴鹿関の警固役を務めたりしたが、本宗家が柏木御厨(かしわぎみくりや)(水口町)に移住してからは、同家は山中村に残った系統と二分することとなった。以後、同家は山中村の山中家と柏木郷を本拠とする山中(宇田)家に別れ、それぞれ領域支配を進めることになった。ただし、山中村の同氏にかかわる文書が現存しないため、山中氏についての従来の研究は、柏木御厨一帯に勢力を持った山中(宇田)家に集中している。しかし、宇田村の山中家の文書から、山中村の同氏が戦国期に至るまで、同村内部の土地買収に従事していたことが知られ、両家ともに活躍していたことがうかがい知られるのである。
さて、甲賀武士についてはすでに述べたところであるが、今触れた柏木御厨一帯に力を有する山中家と他に伴・美濃部(みのべ)の三氏については、柏木三家と呼ばれ、また杣荘(そまのしょう)一帯に勢力を有した鵜飼・内貴・服部・芥川・望月氏は、杣五家と呼ばれていた。甲賀武士の中では、特に青木・山中・三雲・隠岐・池田・和田の六家は大身で、六角氏の本拠観音寺城の在番衆として活躍しており、甲賀六家と呼ばれた。
このような甲賀武士によって形成された惣は、野洲川・杣川の水利や山林問題、あるいは経済的利害にともなう事件に、ある時は当事者として、そしてある時は調停役にまわるなど、常に郡中惣の自治を貫いてきたのであった。
なお郡中惣と六角氏との関係においては、山中氏の場合をみてみると、南北朝内乱期には、六角氏に従軍し、知行宛行(ちぎょうあてがい)をされていることから守護権力に依存することによって領地経営を行ったが、戦国期を通じては惣連合社会の確立とともに、六角氏被官人とは全く異った権力機構の中で行動するようになった。すなわち、守護六角氏を始めとする諸権力から独立した社会構造、すなわち惣という名の地域権力の中で行動するようになったのである。甲賀郡中惣は、戦国社会にみられる地域的一揆体制の一端をうかがい知る貴重な実例である。