石部三郷

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五十三家の一家である青木氏が支配した石部三郷とは、石部・西寺・東寺の三郷をさす。この三郷については、石部三郷名主中と檜物下荘名主(ひものしもしょうみょうしゅ)百姓中との用水相論があり、その解決のために、先述した甲賀郡中惣の調停がうかがえるのである。なお用水相論の詳細については、第三節に譲るが、ここでは郡中惣と石部三郷のかかわりについて、述べておきたい。
 郡中惣による裁定は、惣の性格を知る上でも重要な事柄である。なかでも石部三郷の仲裁裁定は、当地域の支配者である青木氏の手によるものではなく、先述の柏木三家と呼ばれる山中・伴・美濃部の三氏によってなされている。一連の経緯は、『山中文書』に詳述されているが、要約すると次のようなことがうかがえる。
 郡中惣の山中・伴・美濃部三氏が槍物下荘名主百姓に宛てた文書などによると、永禄の初めごろから用水相論がなされていたが、同八年(一五六五)には、終結を迎えたようで、和解の成立が知られる。具体的には、裁定の結果として、条件や制裁が示されており、それが相当厳しいことから、一連の相論がいかに激しいものであったかを物語っている。例えば制裁の一方法に放火が上げられており、名主は二階門もしくは内門、百姓は本人から年齢順に家三〇軒と決定されている。家屋放火の制裁は当事者にとって、大きな財産を失うことに等しく、極めて厳しいものであったと思われる。さらにこの相論中に、岩根衆が討死したことが知られており、なおさら和解に向けて、石部三郷と檜物下荘の両者があゆみ寄らねばならなかったことがうかがえる。また、山中・伴・美濃部三氏の仲裁を認めたうえで、「八郷高野惣」も、この裁定に参与しているのである(『甲賀郡志』所収、山本文書永禄八年七月二日)。八郷高野惣の連名には、「身寄中・柑子袋衆・夏見衆・岩根衆」の名前がみられ、先に述べた岩根衆の討死の一件と合わせて、かなりの数の郡中惣の仲裁が必要であったことが知られるのである。
 ともあれ、以上みてきた用水相論は、当事者同志で解決のできなかった難題に、郡中惣が仲裁した点において、いかに惣の自治が確立していたかを物語っている。また一方で、彼ら各惣が石部三郷・檜物下荘の在地に発言力を有する足掛りを作ったことも考えられる。なお石部三郷に限っては、当地を支配していた青木氏との関係については、残念ながら今ひとつよくわからないが、同氏にかかわる問題点については、次節に譲りたい。