六角氏と織田氏

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六角高頼の子定頼、さらにその子義賢(よしかた)(承禎(じょうてい))の代が、六角氏が、守護大名から戦国大名へと転化した時期に相当する。守護六角氏の場合、国人(こくにん)層とのかかわりも古く領国経営も順調であったが、江北の京極氏の場合は、守護代浅井氏の台頭の下に首領の座を奪われた如く、まさに下剋上(げこくじょう)の世においては、いかに国人領主たちを求心的に把握しているかが、大名としての存続に大きく影響していた。その点、六角氏は零落した時期があったとはいえ、将軍と密接な関係を保つことによって、近江国守護という権威を維持し、それを後ろ楯として国人領主層を配下に置き、独自の領国形成を展開していったのであった。高頼―定頼―義賢の時代は、変動こそあれ、六角氏の政治的軍事的基盤の形成期としてとらえるべきであろう。
 さて、長期にわたる戦国時代は、諸国に下剋上の嵐を呼び、世はまさしく戦乱の渦中にあった。このような世上の中にあって、突如として頭角を現わした武将がいた。織田信長である。織田氏は、もとは尾張国守護斯波(しば)氏の守護代であったが、文正(ぶんしょう)元年(一四六六)に斯波氏が分裂を起こし、清洲方と岩倉方に分かれた時、清洲織田家の信秀が織田家を統率して、尾張一国を支配するまで成長したのであった。織田氏も下剋上の申し子であり、戦国大名の典型のひとつであったことに変りはなかった。ところが、信秀の子信長は稀にみる天成もあって、みるみる間に勢力を拡大していった。世にも有名な桶狭間(おけはざま)の合戦(一五六〇)では、上洛を企てる今川義元を討ち果たし、同家の命脈を絶つに等しき辣腕(らつわん)ぶりは、信長の天下統一を暗に予期するに十分足りうるものであったかもしれない。その信長が、足利義昭(よしあき)を奉じて京都に向かって進軍したのは、第十三代将軍足利義輝(よしてる)が、三好義継・松永久秀らに襲われ、討ち死にした永禄(えいろく)八年(一五六五)から教えて、わずか三年後の永禄十一年(一五六八)のことであった。