六角軍と織田軍

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信長の近江進攻直前の国内は、江北に浅井長政、江南に六角承禎がおり、共にしのぎを削っていたが、台頭する浅井氏は、江南への進出を強めており、かたや六角氏は家臣の内紛から領国経営が徐々に傾きつつあった。浅井氏は、長政の父久政が六角義賢(承禎)と結ばれていた関係から、子長政も初めは義賢の偏諱(へんき)を賜い賢政と名乗り、六角氏の家老平井加賀守の娘を娶(めと)ったが、賢政はのちに信長とよしみを通じ、長政と改名し、信長の妹お市を妻に迎えたのであった。浅井家と織田家が結ばれたのは、信長の政略にあったことは言うまでもないが、ここに浅井家と六角家が敵対するに至ったことも、また言を俟(ま)たなかった。
 かくして、信長の近江進出は始まった。しかし信長は、これより先、永禄十一年八月に上洛にあたって、観音寺城に構える六角承禎・義治(よしはる)(義弼(よしすけ))父子に対して、協力の依頼を行っているのである。だがすでに、六角氏は三好三人衆らと手を結んでいたし、何にも増して、近江源氏佐々木氏の嫡流であり、代々近江国守護を務めた名家としてのプライドが、信長の進行を拒んだのであろう。六角氏は信長の要請に応じず、合戦に備えたのであった。
 同年九月、信長は六角承禎の箕作山(みつくりやま)城(安土町・五個荘町)と本拠観音寺城を一挙に攻撃した。六角方は、当然のこととして織田軍が六角軍の支城の各々を攻めて来ると予測していただけに驚き、意表をつく信長の戦術に浮き足立ち、総崩れとなってしまった。『信長公記(しんちょうこうき)』永禄十一年九月条によると、
十一日、愛智川近辺に野陣(のじん)をかけさせられ、信長懸まはし覧じ、わき/\数ケ所の御敵城へは御手遣(てづかい)もなく、佐々木(六角)父子三人楯籠(たてこも)られ候観音寺並箕作山へ、同十二日にかけ上(のぼ)させられ、佐久間右衛門(信盛)・木下藤吉郎(秀吉)・丹波五郎左衛門(長秀)・浅井新八(政澄)仰付けられ、箕作山の城攻めさせられ、申剋(さるのこく)より夜に入り、攻落し訖(おわんぬ)、

と記されており、六角軍の防備の中枢的役割を果していた箕作山城と観音寺城の両城を攻略したことがうかがい知られる。承禎父子は、最初に箕作山城が落城したのを聞くや、ただちに観音寺城から退き、甲賀山中へと走ったのであった。この報を聞いた他の六角氏のおもだった家臣たちは、織田軍に降参し、各支城を明け渡すと共に、信長の軍門に下った。信長は、合戦になる以前から、六角氏の有力家臣たちに降服を勧告しており、かかる呼びかけの効果は観音寺城落城以降、六角氏家臣の多くが信長方に簡単に順応したことにあらわれていよう。

写55 観音寺城趾(安土町) 観音寺山(別称:繖山)全山を城域とする大規模な山城遺構である。

 このようにして、甲賀山中へ退去した六角氏は、高頼以来のゲリラ戦法によって、信長軍を攪乱(かくらん)する作戦へと転じたのであった。一方、信長は、江北地域を同盟関係にある浅井氏に任せ、江南は佐久間信盛らによって要所を固めたようである。ところがその信長にとって予期せぬことが起こった。浅井氏の離反である。元亀(げんき)元年(一五七〇)四月、信長が朝倉義景征伐のため越前に出兵したが、その隙をねらい、浅井氏は朝倉氏との縁を重んじて信長を見かぎり、信長軍の背後を突いたのであった。この時、伊賀に逃避していた六角承禎は、浅井長政と呼応して蜂起し、旧領に戻って陣立したのであった。再び六角氏は信長軍と戟交えることとなったのである。
 一方、信長は、九死に一生を得て帰洛することができたが、多くの将兵を失う結果となったのであった。信長は岐阜に戻り、浅井・朝倉攻めの準備を進めるかたわら、近江においては、六角承禎との和議も進めたが、結局不調に終わった。勢いづいた六角軍は、重臣三雲・高野瀬氏らを中心に勢力を伸ばし、石部城にあっては、その兵の数は二万ともいわれた(『言継卿記』元亀元年五月二十二日条)。また金森を中心とする野洲川一帯は、一向宗の拠点でもあったが、彼らと密接な連絡をとりながら、織田勢に対抗したものと考えられる。そして、同年六月には野洲川下流域で合戦がくり広げられたのであった。『信長公記』元亀元年六月条には次のように記されている。
六月四日、佐々木承禎父子、江州南郡所々一揆を催し、野洲川表へ人数を出し、柴田修理(勝家)・佐久間右衛門(信盛)懸向ひ、やす川にて足軽に引付け、落窪の郷にて取合ひ、一戦に及び、切崩し討取頸の注文、
 三雲父子・高野瀬・水原、
伊賀・甲賀衆究竟の侍七百八十討ちとり、江州過半相静り、

 この合戦は、かなりの規模のものであったことがうかがえるが、結果的には六角軍が大打撃を被る敗戦であった。特に三雲・高野瀬氏ら譜代の家臣を失ったことは大きく、再び承禎・義治父子は、甲賀山中に退却したのであった。
 同年六月二十八日、織田・徳川連合軍と浅井・朝倉連合軍の間でくり広げられた戦いとして世に有名な姉川(あねがわ)合戦は、かろうじて信長方の勝利となったとはいえ、両者とも多くの死傷者を出した激戦であった。しかしこの間、六角氏は先日の敗戦から立ち直れず、何ら行動らしい行動はとりえなかった。もはや六角軍の戦力は、地に落ちたも同然であった。天正二年(一五七四)には、石部城を拠点としていた承禎も、佐久間信盛らに攻撃され、遂に再起不能となってしまった。六角氏の命運もついに尽き果てようとしていたのであった。