石部城の攻防

201 ~ 202ページ
将軍足利義昭が追放され、さらに江北の浅井氏、越前の朝倉氏が滅ぶと、いよいよ信長の六角征伐は本格的になってきたのであった。一方、たび重なる六角氏のゲリラ戦法は、次第とその戦力が低下し、先述のように、元亀元年の野洲川合戦や天正二年の石部城籠城戦が、六角氏の戦国武将としての意地をみせる最後の戦闘となったのであった。なかでも石部城をめぐる攻防戦は、六角軍の最後の力量をみるにふさわしい合戦となった模様である。石部城は、甲賀武士青木石部氏の拠城で(後述)、この城を六月承禎は本拠地とし、信長の部将佐久間信盛を迎え討つことになったのである。『山中文書』年未詳十二月二十四日付「六角承禎書状」(『甲賀郡志』下巻)をみるとその戦いぶりを知ることができる。
先年、江州石部館え出張せしめ、(織田)信長に対し確執に及ぶ、越前朝倉・江北浅井没落の後、佐久間父子(信盛・信栄)大軍を帥(ひき)い、石部館を攻む、菩提寺城を抜き、石部において堅固に相拘(とど)め畢(おわ)んぬ、其方儀、軍忠を抽(ぬき)んで、取林寺熊之助の首を撃ち、その時他に異なる感状を与う、九月朔日より翌年四月十三日に達し籠城す、寄手柵十一ケ所の附城、(山中)長俊等柵を破り、忍び出で敵を討つこと四度なり、退城の時、供奉して信楽に至る、敵これを躡(お)うと雖(いえど)も、追い払い事故なく信楽に着く、右の赴(趣)、今に至りて失念す、今我齢八十一に及ぶ、残命久しうべからず、且床に臥す、然れども当来後世の契約を成す故、改めてこれを書く、判形を加え筆跡其甚し、高定これを認むるの条、細に能わず候、恐々謹言、
  極月廿四日                            (六角)承禎 (花押)
 山中山城守(長俊)殿 参

 菩提寺城を攻略し、石部城を包囲した佐久間軍は、封柵で城内を拘禁し、六角軍殲滅を計った。ところが、城内では山中長俊や石部家清など六角氏とともに闘い抜いてきた甲賀武士たちが、一一ヶ所の封柵を破って敵陣に反撃を加えたりした。六角軍が得意とするゲリラ戦術で、敵を威嚇(いかく)したのであった。しかし、ついに籠城をあきらめ、信楽に脱出するに至った。六角軍の敗退であった。
 なお、ここにこの合戦時に出されたと思われる織田信長の一通の黒印状がある(『山中文書』年未詳三月五日付)。大変興味深い内容を持つものである。
書中に三色見来候、祝着せしめ候、毎々懇切浅からず候、仍て甲賀郡内の者共の礼、其意を得候、石部表の執出(砦)の儀に付、各精を入れ候段、弥(いよいよ)由(油)断なく候て、落居たるべく候の条、堅く申し付くべく候、猶、来問を期し候、謹言、
  三月五日                              信長 (黒印)
   佐久間甚九郎(信栄)殿

 内容からみて、石部城が佐久間軍に攻められ、承禎が信楽に逃避した天正二年四月の直前に発給されたものと思われる。六角氏の滅亡寸前に、信長は甲賀武士たちが自軍になびきつつあることを意識して、佐久間信栄に油断なきよう差配することを命じているのである。はたして承禎に付き従った甲賀武士がいか程いたかは不明であるが、少なくともこの文意から知られることは、甲賀郡内の地侍たちが信長に帰順していることである。この合戦において信長の六角征伐は、ほぼ終焉(しゅうえん)を迎えたといってよかったのである。