さて青木氏については、次に記す「同氏連署借用状」(『山中文書』)により、姓名を知ることができる。
借用申す御料足の事、十つき(月)あとに返弁申すべく候、
合せて本銭参拾貫文といえり、御蔵本は山中大和守(俊好)殿なり、
右、件の御料足は、弐文子の賀(加)利分来年五月中に返弁申すべく候、万一無沙汰申し候は、当郷え御懸け候て、相当のしち(質)物召さるべく候、其時、一言の子細申す間敷候、仍て後日のため、借状件の如し、
永禄参庚申年九月朔日 正□(青木石部)(花押)
左衛門尉(青木岩崎)(花押)
吉房(青木上田)(花押)
重勝(青木南)(花押)
山中大和守殿 参
合せて本銭参拾貫文といえり、御蔵本は山中大和守(俊好)殿なり、
右、件の御料足は、弐文子の賀(加)利分来年五月中に返弁申すべく候、万一無沙汰申し候は、当郷え御懸け候て、相当のしち(質)物召さるべく候、其時、一言の子細申す間敷候、仍て後日のため、借状件の如し、
永禄参庚申年九月朔日 正□(青木石部)(花押)
左衛門尉(青木岩崎)(花押)
吉房(青木上田)(花押)
重勝(青木南)(花押)
山中大和守殿 参
永禄三年(一五六〇)九月一日付の借用状は、先述の条々より二年後のものであるが、青木四氏については、同一人物と考えられる。青木石部正□・青木岩崎左衛門尉・青木上田吉房・青木南重勝の各四氏は、石部三郷を拠点として活躍していたと思われる。なお、この借用状の内容については、青木四氏の連名で、山中氏から銭三〇貫文を借用したことを記したものであるが、これは山中氏が所領を拡大化するための高利貸活動の一端を現わすものであった。青木氏は、訳あって山中氏から借金し、その返済の有無については不明ながらも、もしも返すことができない場合は、「相当の質物」すなわち土地を割譲することになっていたのである。山中氏については、文書中に高利貸を意味することばである「御蔵本」と書かれているように、同氏は、自己の土地集積のために、高利貸業を営み、担保として土地をおさえていったのである。「山中文書」には、同時期の借用状が多くみられ、まさに同氏の経済活動を証明しているといえよう。青木四氏が連名で山中氏から借金したことは、石部三郷全体に対して、山中氏の手がのびてきたことを意味し、そしてそのことは、とりもなおさず山中氏の同郷に対する権力の浸透として考えられるのである。
青木氏のその後の振る舞いについては、詳細は不明ながらも、二十四年後の天正十二年(一五八四)に至ると、田地を売却していることが知られる。天正十二年二月二十三日付売券がそれである(写56)。
写56 青木又左衛門・力千代連署売券
(『竹内淳一家文書』)
永代売り渡し申す田地作職の事、
限る[東西は川、北は手代田、南は徳善田]、合せて壱段といえり、[江州甲賀下郡檜物庄内西寺字中ふけに在るなり]、限る[東は九郎右衛門田、南は京泉田、西は川、北は実蔵坊田]、合せて大といえり、[字北うらなり、何も年貢御蔵入なり、此外に諸役なきものなり]
右件の作職は、我等知行たると雖も、要用あるに依りて、現米弐石五斗に永代売り渡し申す處実正明白なり、然る上は、此作職に於ては、違乱煩い他の妨げあるべからざるものなり、万一兎角、申す仁躰これ在らば、我等不日罷り出で、申し明くべきものなり、仍て後日のため、新放券の状、件の如し、
天正十二甲申年二月廿三日 青木又左衛門(花押)
同 力千代 (花押)
限る[東西は川、北は手代田、南は徳善田]、合せて壱段といえり、[江州甲賀下郡檜物庄内西寺字中ふけに在るなり]、限る[東は九郎右衛門田、南は京泉田、西は川、北は実蔵坊田]、合せて大といえり、[字北うらなり、何も年貢御蔵入なり、此外に諸役なきものなり]
右件の作職は、我等知行たると雖も、要用あるに依りて、現米弐石五斗に永代売り渡し申す處実正明白なり、然る上は、此作職に於ては、違乱煩い他の妨げあるべからざるものなり、万一兎角、申す仁躰これ在らば、我等不日罷り出で、申し明くべきものなり、仍て後日のため、新放券の状、件の如し、
天正十二甲申年二月廿三日 青木又左衛門(花押)
同 力千代 (花押)
青木又左衛門・力千代連署の売券には、檜物荘内の西寺(石部町大字西寺)の各字「中ふけ」「北浦」に所在する田地を売却した旨が記されている。売り渡し先は、残念ながら知ることができないが、このような小領主層の土地売却は、すでに述べた山中氏らの台頭に拍車をかけることとなったのである。この青木氏の売券のみでは、同氏の動向を知る由もないが、石部三郷一帯に所領を有する青木氏の手からも、次第に土地離れが始まっていたのではないかと思われるのである。
さて青木氏の邸宅は、享保十九年(一七三四)に編纂された近江国の地誌である『近江輿地志略(おうみよちしりゃく)』によると、石部町字平野の真明(しんみょう)寺境内に位置し、そこは青木右衛門佐の屋敷跡であったと記されている。なお右衛門佐については、織田信長の被官紀伊守一矩の子どもであると記されているものの、その真偽は不明である。青木氏の末裔については、次にあげる『青木八郎右衛門家文書』より、同氏の様相をかいまみることができる。
<史料①>
乍レ恐以二書付一奉二申上一候事
一、私先祖、当村領主青木伊豆守弟権六と申者、当村居住仕候処、永禄五年家康公様、参州御住国之刻、牧野伝蔵様・戸田三良四良様、御上使ニ而甲賀郷侍之者へ御頼被レ遊、参州江出陣仕、御〓運之後、在所江罷帰り相果て候、忰左近と申者より甚之丞と申者迄三代之内、御上洛之度ニ、御通筋江被レ出、御目見江仕候、(中略)
江州甲賀郡正福寺村
安永六年酉三月 青木林蔵孫小左衛門
病気ニ付
代栄助
土山
御役所
(後略)
<史料②>
青木家由緒書
(中略)
一、青木伊豆守と申者、当村ニ在住被レ致、五百石所領、嫡子三右衛門と申者、天正年中ニ被二召出一、五百石拝領、三右衛門嫡子四郎兵衛と申者、寛永三年秀忠公様被二召出一遺領五百石、(中略)
丑八月
江州甲賀郡正福寺村
青木宗十郎
史料①、②は、甲賀郡正福寺村(甲西町)の青木家に伝わるもので、ともに江戸時代に記された同家の由緒にかかわる部分を抄録したものである。史料①は、安永六年(一七七七)三月、正福寺村の青木小左衛門(病気につき代理人栄助)が、土山代官所に提出した庄屋役改めの指出証文である。これによると、正福寺村領主であった青木伊豆守という人物の存在と、その弟権六が同村に居住し、永禄五年(一五六二)に三河の徳川家康の下に出陣していることがわかる。なお、この権六の件については、信憑性の問題が残るにせよ、史料②の青木家由緒書に記された同氏の来歴も考慮するならば正福寺村の青木氏が江戸時代に至っても存続し、庄屋役を務めていたことが確認されるのである。
最後になったが、石部に本居を置く地侍層として、青木家のほかに服部・内貴の両家があげられる。
服部家は、①平家の流れをくみ、伊賀国服部村に居住した知忠を祖とし、盛朶の代より甲賀郡に根づくようになった系統と、②近江佐々木氏の流れをくみ、佐々木厳秀を祖とし、政詮の代より石部郷に居住したとされる系統がある。前節で述べたが、甲賀五十三家のなかに記される服部藤太夫は、①の系統に属する。内貴家は、内記とも書き、長享の乱に軍功をあげたとされている。
『佐々木南北諸士帳』には、
石部城主 箕作義賢随兵 内貴三郎左衛門
同主 内貴伊賀守
とみえ、六角義賢(承禎)に仕えていたことがうかがい知られるのである。甲賀五十三家交名中に記された内貴伊賀守の名前から推して、同家が代々伊賀守を名乗っていたことも考えられよう。
なお、服部・内貴の両家については、青木家のように詳しいことが今ひとつわからず、史料も相当断片的かつ推量の域を出ないものばかりなのが惜しまれる。