承貞様 慶長三年戌戊三月廿日
一念のこころハ西へうつせみの、もぬけはてたる身こそやすけれ
慶長三年十一月十五日如レ此はんへる 平家清
弘法大師御筆六字名号、奉レ寄二進善隆寺一宇一、兼又、毎月廿四日此名号可レ有二御掛一事、
右、精誠旨趣者、奉レ為二大納言定秀大徳公出離生死頓証菩提一也、
但、雖レ為二少分一霊供米毎月廿四日毎八木(米)三合宛、我等存生之間、送可レ申也、并茶湯被レ備可レ預二御回向一候、然者自餘以後、御院主相替候共、於二此名号一者、無二相違一可レ為二御附属一候、別者御壇主え此旨被二仰聞一候事、肝心也矣、
永宗禅定門 正月十七日 妙真禅定尼 天文辰年八月十八日 清林大姉 慶長三戊戌正月廿日 石部右馬允 逆修
善現禅定門 正月十七日 宗永禅定尼 十一月十一日 頼秀法師 十四日 高野瀬備前守殿 六月四日
妙隆禅定尼 九日 一身禅定門 三月廿一日 孫太郎清昌 正月十五日 同七郎左衛門殿 九月九日
道光禅定門 天文午年四月廿九日 祐春禅定尼 天文午八月九日 妙春禅定尼 五月廿六日 尼子宮内少輔宗澄 七月廿六日
宗法童子 五月廿六日 三雲津守殿 六月四日
善現禅定門 正月十七日 宗永禅定尼 十一月十一日 頼秀法師 十四日 高野瀬備前守殿 六月四日
妙隆禅定尼 九日 一身禅定門 三月廿一日 孫太郎清昌 正月十五日 同七郎左衛門殿 九月九日
道光禅定門 天文午年四月廿九日 祐春禅定尼 天文午八月九日 妙春禅定尼 五月廿六日 尼子宮内少輔宗澄 七月廿六日
宗法童子 五月廿六日 三雲津守殿 六月四日
妙貞禅定尼 慶長二(三)年戊戌六月廿日
山中岡本次郎左衛門殿 天文十六年二月一日
美濃部将監殿 天文十六年二月一日
新左衛門殿 九月九日
中西七郎衛門尉殿 十一月廿四日
西寺 行徳法師 十一月廿四日 有縁無縁法界 妙勤禅尼 西寺賀々
含識普利
慶長三年戊戌十一月廿四日
寄進施主
石部右馬允平家清(花押)
写57 石部家清花押(善隆寺所蔵)
この中で、歌われている家清の詠草は、長期にわたる戦乱を乗り切り、心身ともに疲れ果てた自己の姿を的確に表現しているといえよう。家清と行を共にした者たち、あるいはその家族を始めとする人々が、長びく戦乱の世に生涯を終えていったのである。乱世に終止符が打たれた秀吉の治世下において、連戦錬磨の家清が、おのれの過去をふと振り返った時、言い知れぬ寂寥感におそわれたかも知れない。あまたの菩提を弔うに至った家清の複雑な胸の内が、かかる文面ににじみ出ていると言えよう。
なお、この法名掛軸が奉納された善隆寺については、家清の草創になる菩提所であると同時に、現在の同寺所在地は石部城趾なのである。善隆寺の濫觴(らんしょう)と家清の関係については、次に記す「石部山善隆寺記録」(『善隆寺文書』)に詳しい。
一、抑善隆寺者、当国箕造リ山之城主佐々木義賢入道承禎之幕下、石部右馬允平家清と申方、当山住居之時代、二親為二菩提一一宇建立有リ、則家清父戒名ヲ善現禅定門、母ヲ妙隆禅定尼と号ス、両親之戒名一字宛ヲ取テ石部山善隆寺ト申伝エリ、(中略)雖レ然、佐々木没落之刻、家清も退転するものか、屋敷ハ膳所御城主様御拝領被レ成候、然所善隆寺、往昔者町並之裏に有レ之、俗家ニ近ク、剰火難之折節、今ノ寺地者家清屋敷跡ニ而由緒も有レ之、
この由緒書は、宝暦六年(一七五六)八月に記されたものである。それによると、善隆寺の命名は、家清父母の戒名の一字をそれぞれとったものであることが知られる。また六角承禎が没落すると家清も逼塞(ひっそく)したようで、屋敷は膳所城主が拝領し、当然菩提寺であった善隆寺も凋落(ちょうらく)の途にあったかもしれない。同寺がその後、現在の地に移ったのは、貞享元年(一六八四)のことである。はれて、石部氏の本拠であった地に寺地を構えたことは、ある意味で、自然の成りゆきであったかもしれない。
さて、話しは先に戻るが、家清は善隆寺に葬られ、同寺過去帳には「慶長四己亥九月十五日寂 専嶽院殿隨誉順故安心大居士 当山地主開基、石部右馬丞也、平ノ家清ト云人也」と書かれている。先述の法名軸が同寺に納められたのが、慶長三年十一月であることからして、家清はかかる書をしたためてからわずか一〇ケ月後にこの世を去ったことになる。法名軸を奉納したのも、死を予期した家清が、乱世を生き抜いてきた者たちに対する、せめてもの供養をせずにはおれぬ衝動にかられたからに違いあるまい。