滋賀県と三重県の県境を源流とする野洲川は、初め鈴鹿山脈とほぼ並行して南西に走り、土山町で北西に流路を変え、甲賀郡のほぼ中央に位置する水口町で杣川と合流する。この土山から水口にかけては川沿いに低地が開けたため早くから開発が進み、古代末期には新羅源氏の本拠地となり、柏木冠者と呼ばれた源義兼(よしかね)は源平の争乱に際して柏木荘を拠点に活躍したが、源義仲についたために歴史の舞台から姿を消す。ついで中世において新羅源氏にかわって当該地域の主役となるのが山中氏である。山中氏は鈴鹿関警固役に任じられるとともに、山中村(土山町)地頭職を得、伊勢神宮領柏木御厨(かしわぎみくりや)(水口町)の管理も任されその勢力を伸長させた。南北朝の動乱期には甲賀郡一帯が南朝方の有力な拠点となったにもかかわらず、一貫して北朝方に味方した。
室町・戦国期に入ると野洲川河畔の開発を契機に小領主層が成長し、同名中惣と呼ばれる一族結合を形成するとともに、野洲川・杣川の流域沿いにそのいくつかがまとまって同名中惣連合を生んだ。当該地域では野洲川右岸に勢力を張る山中・伴・美濃部の各同名中惣が「柏木三方」と呼ばれる地域的一揆体制を形成するのである。また、これより上流の野洲川沿いの地域(甲賀町・土山町)には「北山九家」が、杣川上流地域(甲賀町)には「南山六家」が誕生した。一方、「柏木三方」の下流域には「荘内三家」がみられるが、これは野洲川をはさんで対峙する石部町・甲西町の地域的連合勢力である。さらに「柏木三方」を中核として、甲賀郡全域の同名中惣連合が結集し甲賀郡中惣を組織するにいたる。当該期の近江国においては、各地で惣村(そうそん)と呼ばれる村落結合が展開するのが一般的であるが、甲賀郡においては村落を支配する小領主層が、農民層の支配と外部勢力への対抗を目的として重層的な地域権力を形成していた点に特色が認められよう。但し、本節では甲賀郡中惣を扱うのではなく、「荘内三家」とよばれる地域が古くからひとまとまりの単位として考えられていたことを論じてみたい。