石部の位置

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水口の町を右手にみて野洲川は北内貴・宇田の平担部に入り、やがて正面にそびえる鳥ヶ嶽のふもとで杣川と合流して流路をやや北よりに変える。左手の山すそをすりぬけるように流れる野洲川は三雲(みくも)(甲西町)あたりで東海道ともっとも接近するが、その向こう側からも丘陵が迫っており、この付近で谷状の地形を形成する。やがて右手の丘陵の北側から思川が姿を現し右岸(甲西町側)の山すそを走り、甲西橋のあたりで野洲川と合流する。野洲川が三雲をすぎるあたりから再び山並みがやや遠のいて、石部町・甲西町双方に平地が袋状に広がる地形が展開するが、石部町と栗東町の境界で再び谷口を通過し、これを抜けた高野(たかの)付近で野洲川は琵琶湖へと続く平野部に入っていくのである。
 三雲付近で東の谷口をもち高野の手前で西の谷口を持つ袋状の地形は、ひとつのまとまりをもった地域を形成し、古代から中世を通じて開発が進められた。あとで述べるが、室町・戦国期の「八郷高野惣」の「八郷」もこの二つの谷口にはさまれた地域をさすと考えられる。また、『近江輿地志略(おうみよちしりゃく)』は「今郡中石部、柑子袋、平松、針、夏見、吉永、三雲、妙感寺、岩根、朝国、正福寺、菩提寺、東寺、西寺等十四村を、檜物下荘(ひものしものしょう)と云ふ、其の岩根朝国二村は、別に荘域をなす」と記しているが、檜物下荘と呼ばれた地域も、ほぼこの袋状の地形におさまることは容易に理解されよう。
 この地域を古代から中世にかけての開発の性格によって時期区分を行うと次のようになる。
  Ⅰ 条里制が施行された段階
  Ⅱ 山林の開発が進む段階
  Ⅲ 南北朝以降、平野部の開発が進行する段階

それでは、この順序に従って当該地域の開発の様子をみていくことにしよう。