杣の開発

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このように古代において野洲川に沿った低地が開発の対象となったが、山林の利用も認められる。八世紀の後半、聖武天皇は大仏殿建築用材を甲賀郡に求めた。石部町の東南、烏ヶ嶽・風呂山・大納言などから木材が伐り出され、野洲川から筏(いかだ)に組まれて輸送された。豊富な木材や河川交通の便によって、奈良・平安期に摂関家や南都北嶺が建材や檜物(檜や杉の薄板をまげて作る容器)の供給を甲賀郡域に期待して荘園を設けた。『近江輿地志略』は甲賀郡の荘園として杣之荘をあげ、「伝教大師延暦寺を草創せむと欲し、此地に村を求め杣入し給ふ故に号す」という伝承を記している。その真偽はともかく、南都北嶺が甲賀郡一帯の山林を材木の供給源として早くから着目していたことをうかがわせる。
 甲賀郡の南に広がる伊賀国の山林も南都の杣・荘園として開発され、甲南町は南都北嶺の勢力の境界であった。すなわち甲南町は当時甲賀杣とよばれ、町域を流れる杣川に矢川津が置かれて、ここに集められた木材が南都へむけて輸送された。一方、野洲川流域の水口町から下流の甲賀郡域は摂関家や天台系寺院・杣・荘園が置かれた。最初南都の僧侶良弁の開基を伝える水口町の飯道(はんどう)寺や石部町の長寿寺・常楽寺が天台系の寺院となっているのは、この点から興味深いものがある。水系の関係から平安期以降は伊賀国の山林を南都が、甲賀郡の山林を北嶺が開発・利用する体制が整えられたのであろう。また甲西町には奈良時代の少菩提寺・正福寺・三雲寺や、伝教大師の開基と伝えられる平安時代の南照寺・園養寺・観音寺がかぞえられる。
 杣が荘園となったものとしては信楽荘・檜物荘がある。
 信楽荘(信楽町)は平安時代に摂関家が開いた荘園であるが、鎌倉・室町時期を通じて、近衛家に対して年中行事に奉仕するほか警固のための兵士、特産品である材木・炭・茶などを貢納している。鎌倉初期には伊賀国の東大寺領玉滝荘と境相論を展開した。山林の利用を主とする荘園では開発の進展にともなって隣荘との間にこの種の争いが生じるのが一般であり、多くの荘園では鎌倉末期からの現象である。その点信楽荘は比較的早くから開発が進んだ事例と言えよう。