檜物荘

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檜物荘はその名の通り、檜物の貢納を期待されたと考えられる。平安期の領主は摂関家で、荘域は甲賀郡から蒲生郡にまたがるとされているが不確定の部分が多い。時代は下るが一五世紀後半に近衛家が作成した『雑事要録』には近衛家領檜物下荘が桐原(きりはら)郷内(近江八幡(おおみはちまん)市)にあると記されており、石部町から対岸の甲西町・竜王町・近江八幡市までの広大な領域を想定することも可能であるが、中世を通じて信楽荘のように隣荘との間に山林利用をめぐる相論史が認められない点から、荘域は野洲川右岸は野洲川と日野川に挟まれた山間部、左岸は飯道山・大納言・阿星山の北東斜面であり、しかも周辺地域への関心は薄く開発の対象は野洲川流域一帯(石部町・甲西町)であったと考えたい。この場合、信楽荘は貢納物の運搬に大戸川を利用したと考えられるから、双方の間に境界付近で開発をめぐる問題が生じなかったのであろう。
 荘域内にある長寿寺鎮守白山神社拝殿内に掲げられていた三十六歌仙の扁額裏面に永享(えいきょう)八年(一四三六)の銘があるが、この扁額は大鋸でひいた日本最古の木材とされており、室町期においても当荘が木製品の産出地であると同時に、中央との関係も密で最新の技術を比較的早く導入しえたことがうかがえる。
 摂関家(近衛家)は鎌倉・室町期にも檜物荘を経営しているが、その広大な領域をすべて支配したのではなく、他領の荘園(これも檜物荘とよばれる)・私領の混在を認めざるをえなかった。一四・五世紀には中央の最勝光院・聖護院・東寺のほか在地寺院の所領が認められる。足利尊氏は建武二年(一三三五)に少菩提寺に檜物荘を寄進し、長寿寺に対しては元弘三年(一三三三)に軍勢の乱暴を停止する禁制を与えている。さらに足利義材は延徳三年(一四九一)同寺へ甲乙人の乱暴停止を命ずる制札を発している(写58)。長寿寺は檜物荘内において独自の勢力を形成しつつあったようで、中央や地方の武士から先祖の供養料や燈油料の名目で田地の寄進を受け、寺領を拡大させている。常楽寺についてみると、正和(しょうわ)二年(一三一三)、山門根本中堂末寺善水寺(甲西町岩根)の支配する「散所法師」宅に檜物荘内の常楽寺寺僧らが打ち入り、資財を奪い取り住宅に放火する事件を起こした。これに対し六波羅探題の指示を受けた青地冬綱は檜物荘預所に犯人の引き渡しを命じている。事件の詳細は不明であるが、寺領か「散所法師」の支配権をめぐる紛争と考えられ、その場合常楽寺寺僧が野洲川を渡って岩根に出かける必然性はなく、「散所」が「本所」に対してその外部に存在する所領・機関を意味することから、善水寺の「散所法師」宅が野洲川左岸にあり、「散所法師」の土地か人身そのものの支配権をめぐる両寺の争いが生じたと考えておきたい。またこのときの檜物荘預所が近衛家支配下の者かどうかも不明であるが、たとえ近衛家の預所に指令が出されたとしても、当時近衛家が常楽寺を掌握していたとは考えがたい。

写58 近江国檜物上荘内長寿寺宛制札(長寿寺所蔵)

 このほか荘内に置かれた在地寺院の所領としては、一五世紀に平松(甲西町)に大慈院領が設けられており、文明年間(一四六九~一四八七)には守護によって慈徳寺・妙感寺・報恩寺領が押領されている。
 武士勢力も当荘に進出し、延文(えんぶん)四年(一三五九)六角氏頼と仁木義長が檜物荘の領有を争い、足利義詮は仁木氏にこれを安堵している。
 この間、室町幕府は建武三年と康暦三年(一三八一)の二度、近衛家に対して檜物荘の一円支配の回復などを保障しているが(『蒲生郡志』『調子家文書』)、先に述べたように野洲川流域の回復は望めなかったようである。
 このころ檜物荘は上荘と下荘に分かれて史料に現れるが、その範囲は諸説あり明確ではない。一説には甲賀郡側を上荘とし、蒲生郡側を下荘と呼んだという。また野洲川の左岸を上荘、右岸を下荘とする説もある。さらに石部町内の東寺を上荘、西寺を下荘とみる説もある。
 一五世紀半ば宝徳から享徳年間の「檜物荘納米・下行状」(『吉川勝氏文書』)をみると、「公方年貢」として下荘は八町二反余の田地から米約五〇石を負担しているのに対して、上荘は面積は不明ながらわずか約五斗しか納めていない。そして上荘・下荘の経営を合わせて行っているのが、在地寺院であり、末尾の年行事や一和尚・二和尚という署名からそれがわかる。すでに、この段階で東寺・西寺を含めて惣荘という組織が成立していることも読み取れる。惣荘が東寺・西寺のみなのか、石部も含んだ石部三郷を惣荘とよんだのかはこれらの史料から不明であるが、下行分の項目に「檜皮板代」や「檜皮板師賃」がみられ、すでに山林の用益を期待された荘園ではなくなっていることが推測できる。山間部から平野部へとその開発の対象が移り変わっていたのである。