野洲川流域の再開発

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南北朝ごろから天井川である野洲川に堤防を築いて流れを安定させ、そこから井溝をひいて河畔を水田に開発する努力が続けられた。これを指導したのは在地の小領主(土豪層)で、彼らは用水権の掌握をひとつの契機として領主化を図り、やがて甲賀郡内の在地徳政・用水支配・流通機構・法秩序を主体的に掌握する「地域的一揆体制」を組織した。甲賀五十三家と伝えられる土豪層はこうした階層を出自とすると考えられ、柏木三方の山中・伴・美濃部氏はその代表例である。
 東西の狭隘部に挟まれた沖積平野をもつ石部町・甲西町には、内貴・服部・青木・宮島・針・夏見・三雲・鵜飼・岩根の諸氏が台頭した。石部町に関係の深い小領主は内貴・服部・青木の三氏であるが、特に青木氏は青木石部・青木岩崎・青木上田・青木南の四流に分かれて石部三郷(石部・東寺・西寺)を支配した。小字(こあざ)名から、石部地区は石部・上田氏、東寺地区は岩崎氏から居住したと推測できる。南氏については不明であるが、残りの東寺地区を本拠とした可能性が強い。
 石部町域の開発は主として石部地区を対象に進められた。東寺・西寺地区の耕地は溜池や小河川から用水を得ており、野洲川の水をひいて東寺・西寺を灌漑するのは困難である。ただし起田(しんでん)付近の開発は近世に入ってからで、この段階ではもう少し山寄りが開発の対象であった。