野洲川流域の用水相論

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野洲川流域では史料から確認できるかぎり一五世紀から野洲川の水を利用した開発が行われた。檜物荘では享徳二年(一四五三)の「檜物荘納米・下行状」の下行分に「河開寄合飯料」「井懸出来」の項目があり、このころには野洲川に井堰が設けられたと考えられる。また応仁元年(一四六七)には大慈院領荘内平松(甲西町)の田地三反をつぶして用水堤を築き、年貢一石八斗を免除されている。やがて用水権をめぐって、荘園領主と在地諸勢力、あるいは在地村落相互の紛争が生じる。
 文安五年(一四四八)、伊勢神宮領柏木御厨(水口町)に美濃部氏が新井を建てて神宮が支配する用水を奪う事件が幕府の裁定を受けた。以後、柏木御厨における神宮の支配権を示す史料はなくなり、甲賀郡の小領主が用水の掌握を契機に領主化を図ろうとしたことを示す早い時期の史料といえよう。さらに文明年間以降、甲賀郡内の用水相論は近隣の小領主層相互が調停し幕府は介入しなくなる。すなわち文明十六年(一四八四)、河原田の井溝をめぐって山中氏と福長氏の相論において、郡内の土豪層である山岡・多喜両氏の仲裁を受けている。