一、檜物下荘の井口の件について、私(花園方)の領内の者は一の井口について主張するところはない。檜物下荘方が(よこした規約について)双方の百姓が当方の川原で寄合を開いて確認しあったのはまぎれもないことである。
一、当方と檜物下荘が井水のことで申し合せをしたのは古いことではない。だから万一、当所の百姓と岩根の百姓が正福寺に対してどのような書類を提出しても、これを採用しない。
一、正福寺が榑(薄い板)を入れて井水を引いているのは最近になってからのことである。それゆえ、そなた(石部)の井口から上流にある榑を破却するのは一切できない。
以上から、檜物下荘が石部よりも上流から用水を引いたことから紛争が生じたこと、寄合を開いていることからうかがえるように、この地域の水利問題は村落民が主導権を握り小領主(花園・青木石部氏)は村落を代表して利害の調整にあたっているにすぎないこと、永禄元年以前に横田川左岸の岩根・花園・正福寺が檜物下荘の井水の件で話合いを行い合意に達していること、したがって今回の紛争についても花園としては正福寺よりの立場を保持していることが読み取れる。ちなみに先にひいた『近江輿地志略』が岩根・朝国が石部や正福寺とは別の荘域をなすと述べているのは、岩根・朝国が石部や正福寺とは別の水系から水を得ていたことを予想させる。おそらく、花園・岩根・朝国は当時思川から用水を引いていたと考えられる。
相論は長期にわたったため相当の経費を必要とし、石部三郷は青木氏の名で山中氏から銭三〇貫文を借用している。
この相論は永禄八年に「判者衆」が裁定を下したにもかかわらず、檜物下荘百姓中はこれを無視して石部三郷の焼打ちを敢行し、岩根同名中の武将が討死した。そこで新たに柏木三方(山中・伴・美濃部)が仲裁を行った。柏木三方はこのとき、「前の判者衆」の裁定内容は変更せず、檜物下荘に対しその武力行使を処罰するための裁定を下した。まず檜物下荘の「本人(小領主)」・名主層に以下の裁定を下した。
名主層の家の「二階門」をすべて破壊し放火する。「二階門」がない場合は「内門」に火を付ける。ついで小領主・百姓層で構成する宮座の臈次順に家屋を三〇軒を焼く。そして小領主・名主の家から一軒に一人ずつ剃髪し法体となって、河田神宮(水口町)の鳥居前で、石部三郷名主中と和解の儀式を行う。檜物下荘がこれを受け入れた段階で、石部三郷に対しては見寄五人と人夫二〇人の家を焼くことを命じる。そして檜物下荘がこの裁定に応じないときには石部三郷の勝訴とする。
これと前後して柏木三方は石部三郷に対し、和解の儀式が無事すまされるよう、その場で「弓矢之御難」がないように「御本人衆(小領主層)」が百姓衆に説得することを要請している。
以上の裁定は「八郷高野惣」に宛てて出され、おそらく「八郷高野惣」が檜物下荘と石部三郷にその内容を伝えたものと思われる。そのうち、柏木三方が石部三郷に和解の要請を行った三日後に、「八郷高野惣」が柏木三方の「異見」状(裁定書)をそえて檜物下荘に文書を送った。そこでは「八郷高野惣」が改めて柏木三方の裁定を受け入れて武力に訴えることのないよう注意を促している。また、岩根方の武将の戦死の件は、これも柏木三方の裁定で石部三郷が起請文を提出することで決着がついたので、この問題でもめごとをおこさないよう伝えている。そして最後に、この裁定を受けなければ、「中を違え申すべく候」と念を押している。
写59 今度石部三郷と井水之儀ニ付異見申條々 石部三郷と檜物下荘との水論について、名主層の家の門に放火するなど、かなり過激な処罰が定められている(神宮文庫所蔵『山中文書』)。
以上、石部三郷と檜物下荘の相論の経緯をみてきたが、最後に「八郷高野惣」との関係を述べておきたい。柏木三方が裁定の内容を「八郷高野惣」に伝えたのは、石部三郷も檜物下荘もその構成員であったからである。檜物下荘名主百姓中に宛てた文書に「八郷高野惣」として署名しているのは身寄衆惣・柑子袋衆惣・夏見衆惣・岩根衆惣で、石部・檜物下荘が見当たらないがそれは次のような理由からである。「八郷高野惣」の構成員のうち石部三郷と檜物下荘が水論をおこしたため、柏木三方の裁定を遵守させるべく残りの構成員である柑子袋・夏見・岩根が署名したのである。檜物下荘がこの裁定を受けなければ、「中を違え申すべく候」と記しているのは檜物下荘を「八郷高野惣」から孤立させることを言っている。
次に檜物下荘と身寄衆がどの辺りにあったかが問題となる。石部と水論を展開する可能性があるのは上流の柑子袋か対岸の菩提寺・正福寺である。このうち柑子袋は「八郷高野惣」内の仲裁者の側にいるからこの推定は成り立たない。したがって菩提寺・正福寺が檜物下荘である可能性が大きい。また身寄衆と署名しているのはここでは石部三郷と考えておきたい。「八郷高野惣」の中に石部が見えないのは不自然だからである。おそらく、檜物下荘との相論で、石部三郷の方が「八郷高野惣」に訴え、「八郷高野惣」はその判断を柏木三方にあおいだのであろう。「身寄」の意味をこのように考えておきたい。
それでは「八郷高野惣」はどのような地域的連合組織なのであろうか。高野は野洲川の下流側の狭隘部をぬけた所にある高野である。ここは古くから式内社高野神社があり、近郷村落の精神的紐帯の役割を果たしたと考えられる。そこで八郷が具体的にどの八ヶ村をさすかが問題となってくるが、身寄衆である石部三郷(三村)、相手方の檜物下荘は菩提寺・正福寺(二村)、仲裁者の柑子袋・夏見・岩根(三村)のあわせて八ヶ村を考えるのが妥当なのではなかろうか。くりかえし述べるように、この地域は古くからひとつの生活圏を形成しており、時には鋭い対立をはらみながらも、密接な関係を維持してきたのである。