石部ヶ原

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『方丈記(ほうじょうき)』を記した鴨長明は、文治二年(一一八六)三十二歳の時、伊勢旅行の詠草をまとめ『伊勢記』を著している。それによれば、長明は石部を通過する時に、次の歌を詠んでいる。
いせへくだりけるに、野路うちすぎていしべ(石部)河原といふところにて友まつほどに、風のいたくふけば、馬よりおりて、よもぎの中によりふして
よこ田やま、石部河原は、蓬生に、秋かせさむみ、都こひしも

野路宿を過ぎ、石部を通過して伊勢へと向った長明が秋風激しい石部河原のよもぎの蔭で友を待つ姿が彷彿とする歌である。この石部河原というのは伊勢落(いせおち)(栗東町)を過ぎてから、金山(かなやま)あたりと野洲川との間に広がる河原を指している。この歌は藤原長清の『夫木(ふぼく)和歌集』にも収められているが、そこには「石部の原」と出ている。観応(かんのう)元年(一三五〇)八月作成の原図を文亀(ぶんき)二年(一五〇二)二月に写した金勝寺の「四至封彊(ふうきょう)図」によれば、伊勢大路と金山の間に「石部ヶ原」と書かれ、野洲川の北側に少菩提寺、川田神社の名がみえるので、東西にもかなり広い川原を指していたと思われる。また、名称も石部河原から石部ヶ原に転じたのであろう。

 


写60 金勝山大菩提寺四至封疆之図
(上:全面、下:部分拡大)同図は異本が数点存在する(滋賀大学教育学部史学研究室所蔵)。