また、一般庶民の参宮もみられるようになった。弘安(こうあん)十年(一二八七)の最初の外宮正遷宮には、「およそ遠近萬邦の参宮人、幾千萬と知れず」(『勘仲記(かんちゅうき)』)というように群参している。また天文(てんぶん)二十二年(一五五三)ごろには、「旅人参宮数萬人、その数を知らざるなり。當所の富貴上下申し測り無きなり」(「禰宜度会(ねぎわたらい)晨彦引付」)という状況が現れている。多少の誇張があるにしても、石部を通過して伊勢神宮へと向かった人々の多かったことが知られよう。
このような庶民の伊勢神道を背景に、近世に広がりをみる伊勢講がすでに中世に組織されていた。近江では、文明(一五世紀後半)以降湖東に多くみられ、石部近辺では栗太郡青地荘に大永(一五世紀はじめ)以降の結成が認められる。(『井口定吉家文書』)
以上のように、古代の東海道をほぼ踏襲した伊勢路は、伊勢参宮のルートとして機能を高め、幅広い階層の人々の往来に利用されていた。