伊勢路と城館

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伊勢路として利用された古代の東海道は、近江・伊賀・伊勢・大和を結ぶ重要な交通路であった。このため、たびたび戦乱の中に登場することになる。また、軍事上の拠点として多くの城館も築かれた。
 現在知られる甲賀郡の中世城館の位置をみると、野洲川と伊勢路を見おろす丘陵上に多くの城館が築かれている。特に杣(そま)川上流部に集中してみられ(『滋賀県中世城郭分布調査1』)、奈良との結びつきが強かったものと思われる。
 石部平野の北の入口にあたる甲賀郡と野洲郡の境界付近は野洲川が通る狭隘部をなしている。このためそこを通過する伊勢路を容易に封鎖することができるので、軍事上重要な位置にあった。応仁の乱の際、六角勢掃討の先鋒を務めた浦上則宗が東寺の長寿寺に在陣しているが、これも伊勢路や金勝寺に至る道、ひいては甲賀郡、栗太郡東部を容易に扼することのできる重要地点であったからである。
 また、石部の中世城館である、石部城、青木城および服部氏館は、すべて中位段丘面に立地し、伊勢路を見おろす位置をしめている。
 これら中世城館の形態を推察させるものとして、永禄(えいろく)元年(一五五八)以降に石部三郷と檜物下庄が水論に及んだ際の「今度石部三郷と井水之儀ニ付異見申條々」(『山中文書』)がある。この文書には二階門(外門)・内門などをもった砦や在家への放火に関する文言がみられる。当時この地方には二階門・内門などに囲まれた城館が点在していたとことが知られる。石部の三城は、このような形態のものであったと思われる。

写61 野洲川をはさんで三上山を望む
石部口附近の野洲川狭隘部を名神高速道路が横ぎる。中世には軍事上重要な地点であった。