戦乱の続いた中世であったが、ようやく豊臣秀吉の天下統一によって国内も安定してきた。石部宿の成立については、「吉御子神社由緒書」に元亀(げんき)二年(一五七一)に町(まち)として成立したことが述べられているが、詳細は不明である。
豊臣政権下では、天正(てんしょう)十一年(一五八三)に石部は浅野長政領となった。天正十八年には徳川氏の支配となり、吉川半兵衛が代官として石部に屋敷を構えた。翌十九年に徳川家康は吉川邸の改造を命じ本陣とした。このことは、石部が重要な宿駅としての機能と甲賀郡の徳川支配の中心的役割の両者の性格をもっていたことを示していよう。
徳川家康はたびたび石部に宿泊している。文禄(ぶんろく)元年(一五九二)二月十五日、同年七月二十三日、慶長五年(一六〇〇)六月十八日などが記録に残る。しかし、先の本陣は徳川氏専用のものであり、後世における参勤交代にみられる本陣とは性格を異にしていた。
また、豊臣秀吉は、文禄三年正月、京より清洲までの間に駅制を施行した。さらに慶長二年(一五九七)五月には、長野善光寺の仏がんを京都大仏殿に遷す時、石部・草津間を新城東玉(直忠)に運搬させている。東玉は近江国浅井・蒲生・坂田・栗太の四郡に領地をもつ土豪であった。また、この時の役夫・伝馬は、近江では土山・石部・草津に課せられている。
慶長六年(一六〇一)、家康は大久保長安、彦坂元正らに東海道を巡視させ、伝馬制度を定めた。この時、各宿に「伝馬定」が出され、ここに本格的な宿駅が完成するに至った。この年石部では、一里塚の設置・道路の拡張・徳川氏専用の宿泊施設である「石部御殿」などが設けられたようである。
徳川氏の甲賀郡における領地支配の拠点として、代官吉川半兵衛が屋敷を構えた石部は、徳川氏の庇護を受け、徐々に宿駅の機能をととのえ、一五〇〇年代後半には近世の石部宿の骨格をもつに至った。