宮寺・蓮浄寺の改宗

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元亀(げんき)二年(一五七一)織田信長の家臣佐久間信盛(さくまのぶもり)配下の寺西治兵衛が当地を支配したとき、田中、植田(うえだ)、谷、蓮、平野の五村が合して石部村となったが、この石部の地に一五世紀末以降伸びてきたのが真宗の勢力であった。
 真宗四ヶ寺のうち、古い寺歴をもつのは蓮乗(れんじょう)寺、西福(さいふく)寺であるが、特に蓮乗寺には真宗寺院となる前の歴史が伝えられている。

 


写62 西福寺(左)蓮乗寺(右)

 石部鹿塩(かしほ)上神社はなかごろ植田大明神とよばれ、もと落合(おちあい)川筋の上田(うえだ)の地にあったが、寛保(かんぽう)三年(一七四三)往古の御旅所であった田中、大塚両大明神という宮地に遷(うつ)された。蓮乗寺はこの植田大明神の宮寺であったという。元禄(げんろく)五年(一六九二)の「除地書上(じょちかきあげ)」には、「右当社(江州甲賀郡檜物(ひもの)下庄 石部植田大明神)者、嵯峨(さが)天皇之御宇弘仁年中(八一〇―二四)に、植田蓮浄、大塚善生(ぜんせい)と申長者両人奏聞仕、奉勅、千手観世音、十一面観世音之両堂を開基仕、則其鎮守ニ而御座候」との古伝が紹介されている。
 この観音堂の場所については伝承では明示されていないが、蓮浄、善生の苗字から上田、大塚(王塚)の地と関係があるらしく、上田宮山の王塚(茶臼山)あたりであろう。この地は落合(おちあい)川の傍にあったころの植田大明神社の御旅所でもあり、宮寺としての性格がうかがえる。
 この宮寺は社名・人名・地名などにちなみ、上田山鹿塩(かしお)坊蓮浄寺と号したといい、天台宗延暦寺の末派に属していた。嵯峨(さが)天皇の勅願所と称し、この由緒は後世まで語られた。蓮乗寺棟札に「於石部旧茶臼主上田鹿塩神社宮本、上田山勅願所蓮浄寺鹿塩坊、右者嵯峨皇王勅願所、依之免許物数多有之候者也」とあり(『吉姫神社誌』)、また同寺境内に「嵯峨天皇御由緒」(左側面)「勅願所上田山蓮浄寺」(正面)と刻した石碑が立っている。
 棟札は文体からみて近世のものであるが、文中の「宮本(みやもと)」というのは神社祭祀にあたる頭人宿などを指し、宮元とも書かれる。この棟札の銘文は蓮乗寺鹿塩坊が植田大明神社の祭祀集団の中核をなしていたことを伝えている。

写63 蓮乗寺棟札

 このように植田大明神社と密接な関係にあった蓮浄寺であったが、寺伝によれば明応(めいおう)七年(一四九八)、僧玄戒が衰微した蓮浄寺を中興して、天台宗から真宗に改め、寺号の浄の字を乗にかえたという。蓮浄寺は第一次開創の寺院、蓮乗寺は第二次開創の寺で、両者はひとつの寺歴で結びついていた、と主張するのである。
 また一方では宮寺としての蓮浄寺が元亀・天正のころ焼失したとの伝えもある。さきに挙げた元禄の「除地書上」には、前文に続いて「其後信長公大乱之時、処々寺社焼亡之砌、此所も本堂什物已下不残焼失仕候処、鎮守社相成申候而、則所之氏神と奉崇敬来候、本地者虚空蔵菩薩ニ而御座候」と書かれ、宮寺の方は焼失、神社を残すのみとなったという。元禄三年(一六九〇)の「東海道分間絵図(とうかいどうぶんけんえず)」には、落合川傍の上田の地に「こくう蔵」の堂舎が描かれていて、本地堂のあったことがわかる。「書上」がいう焼失した宮寺とは宮山王塚にあった蓮乗寺のことを指しているのであろうか、あまり明確ではない。
 この点を明らかにするためには、新生・蓮乗寺の宗派たる真宗が石部においてどのように伸びていたかをみなければならない。