この時期に、湖東、湖南地方、郡域でいえば蒲生・甲賀・栗太の三郡に門末を擁して、本願寺を支えていた有力寺院が蒲生郡松原(日野町)の興敬(こうきょう)寺であった。
興敬寺は親鸞の弟子円鸞(えんらん)が開いた興性(こうしょう)寺に始まり、もと京都五条西洞院(にしのとういん)にあったが、のち蒲生郡日野谷の仁正寺(日野町西大路)に移り、明応二年(一四九三)に二寺に分割され、蓮如によって興敬寺、正崇寺と号されたという。永正(えいしょう)五年(一五〇八)実如が興敬寺に方便法身尊像(ほうべんほっしんそんぞう)を下付し、それ以後前記三郡以外にも愛知・志賀・高島諸郡にまで勢力を伸ばしていた。
甲賀郡内の真宗の坊主・門徒は興敬寺の勢力圏にあり、石部の場合も例外ではなかった。『興敬寺文書』によると、永正八年(一五一一)ごろ、甲賀郡内檜物荘、野洲郡、栗太郡の地域で二七ヶ在所に興敬寺の直(じき)門徒が置かれていた。このうち甲賀郡内檜物荘(甲西町、石部町)には柑子袋(こうじぶくろ)、平松、針、夏見、それに谷など石部地域の各在所に坊主・門徒がいた。
年紀不明の文書であるが、これにさきの各在所の坊主・門徒らが「柑子袋光林坊」、「平松了順」、「はり(針)了道」「なつみ(夏見)小川三郎」「大黒や」「ゑびすや」などと挙げられ、光林坊には「今号二光林寺一、今又号二民念寺一」、大黒やには「今西福寺」、ゑびすやには「今蓮乗寺」と註記されている。大黒屋、ゑびす屋が石部地域にあったことは、続いて「谷」の地名が書かれていることによっても明らかであるが、西福寺、蓮乗寺という註記から動かし難いところである。
興敬寺は石山合戦では本願寺と密接な連携を保っていたが、興敬寺の門末も興敬寺と「一味同心」するところがあった。天正(てんしょう)十七年(一五八九)六月十三日付の『興敬寺文書』は、「下坊主衆にはん(判)をすへさせ」て「こうきゃう寺孫右衛門」に提出させた誓約書であるが、これに連署しているのが内林仁右衛門西蓮、ゑびすや彦兵衛、大こくや浄永、はり(針)了道、同教順、たかの(高野)順了、林将監(しょうげん)宗慶、大坂(小坂)春慶、窪村(くぼむら)専了、中村与八、辻村教善、土村(どむら)、今里、三上、岩井(祝)塚、今せ(金勝)覚円、光琳坊宗久らであった。いうまでもなく、西蓮、了道、教順、光琳坊、彦兵衛、浄永らは甲賀郡域の坊主・門徒であり、中でもゑびす屋彦兵衛、大黒屋浄永の二人は石部のものである。
写64 興敬寺(日野町)
このように、永正八年、天正十七年の『興敬寺文書』によって、一六世紀初めにはのちに蓮乗寺、西福寺と称した真宗道場の存在が認められる。また同世紀の末には興教寺の有力な下坊主衆であったことも知られる。蓮乗寺、西福寺がゑびす屋、大黒屋といわれたのは、両寺が商業に従事する町屋の道場から起こったことを意味しよう。同時にまた、石部がすでに天正のころ商業の一中心地であり、したがって宿場的性格がこの地に形成されていたことを示唆している。
さて、ここであらためて蓮乗寺の寺伝をみると、同寺はすでに述べたように明応七年に玄戒によって中興されたという。寺伝上、第二次の開創期を迎えたわけである。しかも第二次開創は真宗という宗派色を帯びていた。一方、『興敬寺文書』による限り、真宗寺院としての蓮乗寺は明らかに道場として、また興敬寺の下坊主として出現している。そこで考えられるのは、ゑびす屋道場から発展して寺院となるとき、衰退した宮寺・蓮浄寺の名跡を継いだのではないかということである。寺号を継ぐことによって蓮浄寺の寺伝をも担うことになったのであろう。
寺院化への過渡期は王塚の地においてであったかもしれないが、元和(げんな)五年(一六一九)に大塚了達が東本願寺宣如(せんにょ)から阿弥陀如来の裏書きを受け、さらに堂舎を字鵜の目町の現在地に移転した、このときが真宗寺院としての実質的な発足期といえよう。
ゑびす屋とならんで登場する、大黒屋すなわちのちの西福寺もまた、明応七年の開創と伝え、浄斎(じょうさい)の開基という。明応七年は近江の真宗興隆に大きな役割を果たした蓮如が没した前年に当り、その後継者実如が活躍する時期である。栗東町には実如の裏書がある方便法身尊像をもつ寺院が多いが、これらはかつての道場、惣道場(そうどうじょう)に下付されたもので、その惣道場は実に興敬寺の門末であった。かかる状況を考え合わすと、石部において道場を構えるなど真宗の信徒が出現するのは、蓮乗寺や西福寺が明応七年に中興または開基されたと伝えるように、明応期と考えても大きな過誤はなかろう。
ちなみに西福寺の山号は清水山といい、元禄五年東明山と改め、さらに享保(きょうほう)十三年(一七二八)田中山と改称したが、田中山の号は田中という地名によるものである。蓮乗寺の山号上田山も地名から出ている。十五世紀末から一六世紀前半にかけて、田中村に大黒屋にはじまる、また植田村にゑびす屋から起こった真宗道場がそれぞれ出現した。『興敬寺文書』には、ゑびす屋と並んで「谷」と書かれているので、谷村にも門徒がいたようである。
なお、興敬寺の教線は栗東町域にも伸び、永正のころには窪・下辻惣道場、伊勢落、高野・祝塚惣道場などがその門徒であった。この興敬寺との関係は史料的に明らかでないが、石部では永正十五年(一五一八)に了法の開基による道場が現われた。すなわち浄現(じょうげん)寺であり、寺伝によればもと野洲川よりにあり、のち街道沿いに転じ、火災によって享保元年(一七一六)知伝の代に金谷(かなや)の現在地に移ったという。