織田信長の近江進攻に対し浅井、朝倉氏が反抗し、両氏はさらに本願寺と結んだが、近江守護家の佐々木承禎(じょうてい)(義賢(よしかた))・義治(よしはる)父子も失地を回復しようとして本願寺門徒と連絡し、元亀元年五月の守山合戦、同六月の野洲川合戦で信長と戦ったが、このときの一揆は佐々木の残党に一揆の徒が利用された感があった。しかし元亀二年には顕如の檄(げき)に応じた一向一揆が近江に多発した。『金森(かねがもり)日記抜』には「元亀二年五月、当国浅井郡ニ一揆大ニ蜂起セリ。コレハ信長公、浅井備前守ヲ悩スヘキノ企ナリケルカ、備前守ハ所縁ノコト候ヒテ、本願寺ヘ内意セラル。本願寺ヨリ申触ラレテ、浅井坂田ノ坊主衆已下ヲ浅井方ニ付ケ申サレケル。北ノ郡ニ十箇寺ノ坊主衆旗頭トナリテ、信長公ノ陣ニ敵ス。建部箕作ノカケ城、草津勢多ノ一揆、守山、浮気、勝部、高野、金勝、甲賀ノ一揆、前後其数ヲ知ラズ」と記されている。
湖南地方での一揆の拠点は三宅(みやけ)金森(守山市)であった。金森は蓮如のときより真宗の中心地であったが、ここに城郭を構え、坊主・門徒らが集まり、大坂から下った川那部秀政の指揮を受け、三宅在域の衆とともに頑強に抵抗した。右の書は「当所金森ハ去年大坂大乱ノ時ヨリ、所々ノ催促其密談有テ、諸方ノ門徒武士強勇ノ坊主衆アマタ加リ、大坂ヨリハ川那辺藤左衛門秀政ヲ下サレテ一城堅固ナリ。三宅村モ其構ヲナス。小南衆ハ三宅金森ノ間ニ左右ニ川ヲ置キ、城ノ西ニ押ツメテ其要害ヲナス」と書きついでいる。金森城には主力が籠城したが、佐久間信盛に攻められ元亀二年九月に陥ちた。信盛は一揆の再発を防ぐため、諸村から「一味内通」しない旨の誓書を提出させた(『勝部神社文書』)。
写65 明清寺 北條氏の別族であった平野新右衛門の孫念正が真宗に帰依し平野山明清寺を創建。
しかし、この後も坊主・門徒らはひそかに石山本願寺と連絡をとり、その籠城には軍資金・食料・兵器などを送ったり、さらに門徒を牽いて出陣した。かの日野の興敬寺も矢文(やぶみ)(密書)によって情報を伝え、あるいは出陣し、あるいは他国の一揆勢と大坂との連絡に当たるなどして大いに活動している。また北部の惣門徒衆や野洲・栗太両郡の「志(こころざし)之衆」からは銀子・懇志が届けられていた(『顕如上人文案』)。
このような状況下に、石山本願寺合戦に参加したのが、平野新右衛門の孫念正(ねんしょう)である。念正は真宗に帰依し、平野山を創基した。明清寺は西本願寺から直参別達の一の処遇を受けているが、これは念正の活動に応えて与えられたものである。
天正八年三月、本願寺と信長との間に和議が成立し、顕如は翌四月大坂を退去し紀州鷺ノ森に移った。しかし長男教如は籠城を持続したので、顕如、教如のいずれにつくか、近江一国の門流もまた去就に当惑したのである。顕如は天正十九年(一五九一)豊臣秀吉から寺地を与えられ、京都六条堀川に移った。顕如の没後、教如(きょうにょ)が跡を嗣いだが、弟准如(じゅんにょ)に対する顕如の譲状が出現し、教如は退隠した。しかし教如に従うものが多く、徳川家康が慶長(けいちょう)七年(一六〇二)烏丸六条・七条間に寺地を与えた。かくて東西両本願寺が分立し、坊主・門徒もまた二分されるに至った。
写66 顕如書状(草津市長安寺) 当寺は天正11年(1583)顕如が開創したとされ、顕如をはじめ教如らの書状を多く残す。これらは湖南における真宗の趨勢を知る上で注目すべき史料である。
やがて両本願寺による地盤の争奪が行われ、門末もいずれかに属するようになった。蓮乗寺、西福寺は興敬寺と同じく東本願寺に属した。浄現寺も一六世紀はじめの状況から興敬寺の影響下にあったと考えられ、江戸時代には東本願寺系となった。明清寺のみは顕如時代の縁故をもって彼の直流西本願寺系に属した。