善隆寺と石部氏

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真宗寺院の多くが農民・商人など庶民層を地盤に成立しているのに対し、浄土宗寺院では土豪など有力者の外護によって開創された場合が少なくない。石部町の浄土宗寺院もこの例に属するが、起立の時代は真宗寺院より遅れる。善隆寺は当地の土豪青木氏の一族である、佐々木承禎の家臣石部氏の菩提寺である。開山、開創年時について、『近江輿地志略』は「天正元癸酉年、覚誉的応(かくよてきおう)和尚の開基」とのべ、寺伝(文化六年『善隆寺記録』所載「石部山善隆寺伝記」)では、天正元年(一五七三)浄土宗改宗、中興開山的応とし、的応以前の僧に樹禅宗海(じゅぜんそうかい)(明徳三年八月没)、哀景宗清(あいけいそうせい)(天文(てんぶん)九年三月没)、南山宗岳(なんざんそうがく)(弘治(こうじ)二年没)宗達(そうたつ)禅師(慶長三年九月没)らを挙げ、その創起がさらに遡ることと禅宗系寺院であったらしいことが示唆されている。
 しかし石部氏との関係が明らかになるのは慶長三年(一五九八)からである。宝暦六年(一七五六)八月書改めの『石部山善隆寺記録』は「抑善隆寺者当国箕造(みづく)り山城主佐々木義賢(よしかた)入道承禎(じょうてい)之幕下石部右馬允(うまのじょう)平家清と申方当山住居之時代、二親為菩提一宇建立有り(略)旦弘法大師御真筆六字御名号一幅并家清一族之戒名俗名書記シたる添書共ニ寄附在之、今に至当寺ニ伝り大切之什物也」とのべ、「開基宗達代、年号慶長三戊稔、再建天和四子年(貞享元)快誉秀存(かいよしゅうぞん)代」と記している。
 弘法大師筆と伝える「南無阿弥陀仏」の六字名号と石部家清一族の戒名俗名を書いた添書(掛軸装)が現に当寺に蔵されている。それによれば家清は慶長三年十一月二十四日に六字名号を寄進したが、その少し前の同年三月二十日には旧主の承禎が没し、家清は名号寄進の直前、すなわち同年十一月十五日に「一念の心は西へうつせみの、もぬけ果てたる身こそ安けれ」と詠じている。
 戦国の世に数奇の運命を辿り、落魄の末路を閉じた承禎が、ようやくその死によって魂の平安を得たことを、石部家清は承禎へのさまざまな回想、特に石部籠城の当時を思い浮べ、それと自分自身の感興とを重ねあわせて、この一首に托したのであろう。家清の浄土信仰がこの歌からうかがわれる。
 この詠草は掛軸装になった添書の上部に置かれているが、貼り継がれた跡が認められ、もとは別々であったようである。しかし紙質は同一である。『善隆寺記録』のいう添書すなわち寄進状の冒頭には「弘法大師御筆六字名号、奉進善隆寺一宇」とあり、六字名号軸を添えて善隆寺を建立寄進したように読みとれるが、「大納言定秀大徳公の頓証菩提のために寄進するものであり、わが一期(いちご)の間に毎月二十四日に霊供米三合を送るので、茶湯をも供え御回向されたい。自今院主(住職)が交代しても代々相違なく伝え、檀主へもこの旨趣を聞かせるように」との旨が書かれているので、「寄進」の内容は弘法大師筆六字名号と霊供米毎月三合に限定されるようでもある。特に文中「御壇主江此旨被仰聞候義肝心也」とあって、この檀那を家清一期ののちの檀那とみるか、あるいは当時すでに家清とは別に他の檀那もいたと考えるかによっては微妙に相違する。いずれにせよ善隆寺を家清による一建立(いちこんりゅう)とするにはまだ問題が残る。寺名が父善現、母妙隆の戒名に因るとの寺側の説明があるとはいえ、慶長三年十一月に、家清個人によって善隆寺一宇が寄進されたと積極的な断定はできないようである。

写67 石部家清一族法名軸
(善隆寺所蔵)

 とすれば、石部家清の善隆寺との関係を示す史料的明証はこの慶長三年の寄進状であるが、善隆寺そのものはこの年以前に存在していたとせねばならない。したがって慶長三年を浄土宗に改宗された年とする寺伝も、あながち否定できない。
 善隆寺の寺地は「往古者町裏ニ有之」(棟札写)、「俗家ニ近ク、剰(あまつさえ)火難之折節、今ノ寺地者家清屋敷跡ニ而由緒も有之、殊ニ荒地ニ付、本多隠岐守様御時代御郡代高橋彦右衛門様御勤役之節替地ニ御願申上候處、願之通リ被為仰付、則天和四甲子年、但シ貞享元年ニ改元ノ初冬、今之地ニ建立するもの也」(宝暦六年『石部山善隆寺記録』)とあるように、もと町並みの裏にあったのが火災により、貞享元年今の寺地家清屋敷跡に移転したのである。
 家清の屋敷跡は字東谷、通称「とのしろ」と呼ばれる所であり、現在は境内地の東方が埋め立てられ、石部小学校に通じる平坦地になっているが、昭和三十年代まではV字状に深く切れこみ、その底地に細い道と水路が南北に走っていた。つまり境内地の南を除く三方はいずれも急傾斜を呈していたのである。屋敷跡とはいえ、まさにそれは城砦であった。
 石部家清は、織田信長に攻められて牢籠の日を送っていた佐々木承禎をこの城砦で守り、反織田の行動に徹した。これよりさき長享(ちょうきょう)元年(一四八二)九月佐々木高頼が足利義尚(よしひさ)の軍に攻められて潜伏したのが、当時三雲(みくも)丹後守の居館であった石部城砦である。また永禄(えいろく)十一年(一五六八)九月、信長に箕作(みつくり)城、観音寺城をおとされ、甲賀郡に出奔、さらに伊賀国に走って再興を期した。元亀元年六月、三雲、高野瀬(たかのせ)氏らを将として甲賀武士を糾合し、織田の将・佐久間信盛らと野洲河原で戦うなど、甲賀郡内にあって反抗の機をうかがったが、承禎の郡内での潜伏城館のひとつが石部城砦であった。同年十一月、一度は信長と和睦したが、なおも石部城にあって画策した。天正元年九月、佐久間信盛は菩提寺城をおとし、承禎を石部表に攻めた。当時、石部下野守(しもづけのかみ)の居館であった石部城には伊賀の河合山内、また稲塚某なども入城して籠城、容易におちなかった。
 承禎が江州を没落したとき、つき従うものわずか六人であったが、これを江州六人衆と称し、山中長俊(ながとし)もその一人であった。信盛の石部攻めにあっても六人衆は活躍し、なかでも長俊は林寺熊之介を討取るなど軍功著しく、信盛はなかなか石部城をおとせなかった。山中長俊宛の承禎書状(極月廿四日)によれば「寄手柵十一ヶ所之附城」であった(『山中家文書』)。『寛政重修諸家譜(かんせいちょうしゅうしょかふ)』(巻五九二)の山中長俊の項に、
承禎甲賀郡石部の城にいたるのゝち、石部下野守某城をかたくし、堀をふかして、相共に守護す。織田右府(信長)これをきゝ、佐久間父子をして大軍を催し、石部城を攻、菩提寺の城を陥るといへとも、長俊等力を合せ忠をつくしてふせき戦ふかゆへに、佐久間城をぬくことあたハず。この戦に長俊、林寺熊之介を討取しかは承禎より感状を与ふ、

と記されている。
 天正二年(一五七四)に入り、甲賀武士で信長側につくものも現われたり、周囲に監視の砦が築かれるなどして、石部城はついに同年四月十三日、信盛の占領するところとなり、承禎は折からの大雨に乗じて脱出した。承禎はその後流寓の晩年を送り、慶長三年三月二十日に没した。家清がその死を聞き詠んだ一首がさきのものである。
 家清のさきの寄進状には、一族有縁の人びとの戒名あるいは俗名と忌日が書きこまれているが、家清自身については逆修(ぎゃくしゅう)(生前に仏事を修して自己の冥福を祈ること)のためであった。この戒名・俗名忌日は石部氏や甲賀武士に関する貴重な史料である。巨大な軍事力に捲きこまれて没落した地方土豪の歴史の一断面がうかがわれる。