当寺の住職俊応が貞享二年(一六八五)に記した『古過去帳』には「一、当真明寺者青木岩崎殿子息青木検校(けんぎょう)殿之持院也、干レ時慶長二丁酉年、開基沙門嶺誉蓮幸大徳、一、境内者青木岩崎殿之城跡也、東西二十六間、南北三十二間、歩数合二反七畝二十二歩」と出ている。『甲賀郡志』によれば、『西福寺記録』に慶長二丁酉年建立、大旦那青木検校、青木山真明寺」と出ているという。青木岩崎は石部三郷を支配していた青木四家のひとつである。永禄三年(一五六〇)九月一日付の算用状には「青木岩崎左衛門尉」の名が見えている。青木検校の検校とは、彼の場合盲人の官職を指す称ではなく、寺務を監督する職掌としてのそれであり、蓮幸を開基として創設した持庵を旦那として管理していたので青木検校といわれたのであろう。ではその名をなんといったのであろうか。
ここに真明寺の寺地は青木右衛門佐(うえもんのすけ)の居館だという伝承がある。『近江輿地志略』には「当寺地は青木右衛門佐屋敷跡也」とあり、右衛門佐について同書の著者寒川辰清(さむかわたつきよ)は「信長の家人紀伊守一矩、初勘七郎といふ、此子なるべし。一矩は後越前丸岡の城主となれり。子を右衛門佐といふ、是なるべし」と考証している。「宮城家系図」(金沢市宮城青一氏所伝)には「青木紀伊守(越前北ノ庄城主)重治(一矩トモ)――青木右衛門(江州石部居住)太夫」と出ており、右衛門太夫とも称したようである。重治(一矩)は秀政とも名をかえ、慶長五年に没している。真明寺の別の所伝では青木秀正の女祐貞が当地に庵を結んでいたといい、その没年は明暦二年(一六五六)十月と伝えている。また右衛門太夫は善右衛門ともいい、慶長十三年(一六〇七)五月に死去したという。さきの「宮城家系図」によれば、同じく石部に住し、大坂冬の陣で討死した青木兵左衛門はその一族である。
真明寺を貞享のころ再興したのは四世俊応(しゅんのう)であるが、この僧は正福寺村(甲西町)の青木庄助の子であるが、正福寺にもまた同族の青木氏がいた。『寛政重修諸家譜』(巻六六五)には「先祖近江国甲賀郡正福寺の人にして、もとは上山を称す。美作守家頼がとき、同国青木の庄に住せしより称号とす」とあり、安頼の項の下に「近江国正福寺の城に住し、佐々木承禎が旗下なり。そのゝち織田右京(信長)に属し、右府生害のゝち青木左京進某に焼討せられ、つゐに所領を奪はる(下略)」と註記されている。
写68 真明寺 慶長2年(1597)建立。『近江輿地志略』には、寺地が青木右衛門佐の屋敷跡とされる。
正福寺の青木氏も佐々木の幕下であった。菩提寺城、丸岡城(甲西町柑子袋)を守っていたのも青木氏であった。このように青木氏は六角配下の土豪として当地方に勢力をもち、甲賀口を扼(やく)していたが、佐久間信盛らの来攻によって、菩提寺の青木氏、石部平野(ひらの)の青木氏も居城を捨て敗走したのである。
以上のように、天正慶長期にあいついで出現した浄土宗二ヶ寺は、ともに織田信長によって没落した佐々木側の敗者・甲賀武士と関係をもっていた。近江における浄土宗は金勝東坂(栗東町)の阿弥陀寺を中心として、その三代住職宗真(そうしん)のとき(一五世紀末)より発展するが、宗真は佐々木氏と深い関係をもち、衰退期の同氏が頼りとした甲賀武士の蟠踞地域に教線を伸ばしている。善隆寺、真明寺が浄土宗寺院であるのも、このような動向と決して無関係ではない。
なお、明清寺以下の寺々については、その記述内容が織豊時代に属しているが、近接した時期であり、寺院関係ということもあって、便宜上本章にまとめた点を特に断っておきたい。