室町文化の概観

245 ~ 246ページ
明徳(めいとく)四年(一三九二)、半世紀余にわたって分裂・抗争をくりひろげた南北両朝は合一した。その二年後、室町幕府三代将軍足利義満は太政大臣に任ぜられ、名実ともに室町時代が始まって、文化のうえにも新たな局面が見出せるようになる。この将軍義満の時代を代表する文化的遺産が京都北山の鹿苑寺(金閣寺)であり、約半世紀後の八代将軍義政の時代には東山の慈照寺(銀閣寺)がそれにあたる。これによって室町文化は北山文化と東山文化とに二大別するのが通例であるが、両者に共通する要素ももちろん多くみられる。たとえば禅宗文化は室町時代の全般を通じて表舞台にあらわれており、以後の日本人の思想に大きな影響を及ぼしていることはいうまでもないし、美術の分野においては禅的な主題を描いた水墨画がやがて風景画・花鳥(かちょう)画などにも応用され、また文学では五山(ござん)文学が隆盛している。しかしこの時代の文化のもうひとつの特徴は、仏教的なものからひとまず離れたジャンルにもめざましい開拓がみられた点にあろう。世阿弥(ぜあみ)のような天才を生んだ能や狂言などの芸能の勃興もその一例であり、またそれと関連して彫刻では仮面の類にみるべきものが多い。絵画の場合にも旧来の仏画には新たな展開はみられず、むしろ世俗画が大きく進展してゆく。文学においても五山文学のほかでは連歌が発達して和歌に新しい生命を吹きこんでいる。しかしこれらは主として京都を中心に栄えたものである。将軍や大名たちは臨済禅に傾倒し、また芸能者に対しては外護者となり、自らも連歌をたしなみ、ときに墨をふくませた絵筆を手にとることもしたのである。それゆえにこの時代の文化は、なおも彼ら少数の支配者のために生産されたという側面を指摘することができよう。その文化的遺産の多くが京都に集中して存在し、応仁の乱による京の荒廃ののちには地方への伝播もあったとはいえ、それとても主要な大名の城下や社寺に限られたといわざるをえない。
 石部の町域に室町時代を真に代表する分野の文化遺産が見出しがたいのは、右のような理由にもよるところが大であろうが、同時にまた、社寺以外の場所に伝来した文化財についてはなかなか実態が把握しにくいという事情もあると思われる。そのようなわけで、この時期、石部町内の指定文化財はなおも仏教美術を中心としているが、わずかながら世俗絵画や仮面などにもみるべきものがあらわれる。