各層三間、初重は中央を板戸として左右に連子(れんじ)窓を配する。本瓦葺(ほんがわらぶき)とし、内部の須弥壇を除いて純和様の建築である。本尊は釈迦如来、四方壁には真言八祖像(しんごんはっそぞう)や十王図、地獄図など、四天柱には仏菩薩を描き、来迎壁(らいごうへき)は釈迦説法図らしい。天台寺院でありながら真言八祖像を描いているのは不審だが、このころの常楽寺は天台・真言両宗兼修であったのではないかと考えられる節がある。
総高は二二・八メートルで、ちょうど三分の一を相輪がしめる。そのほか、総高が初層柱間の五倍であること、塔身高は三・三倍であることなど、典型的な数値を示しており、そのために非常に安定した感じのする建築となっている。
次に長寿寺弁天堂(べんてんどう)(重文)は池中に築かれた石垣の上に建つ。桁行(けたゆき)・梁間(はりま)とも柱間一間ながら、正面の内法長押(うちのりなげし)の上に柱形をおいて組物(くみもの)をのせ、三間のようにみせている。一重入母屋造(いりもやづくり)・檜皮葺(ひわだぶき)の屋根をいただき、正面軒に唐破風(からはふ)をつける。解体修理に際して発見された墨書により、天文十九年(一五五〇)の建造とわかり、棟梁として京の大工平岡孫兵衛の名が知られる。近江においては竹生島が弁財天信仰の中心地であるが、その広がりを示す一例ともみられよう。
写69 長寿寺弁天堂 古材の墨書銘から天文19年(1551)の造立とみられている。方一間の小建物ながら、仏堂としては本格的な建築である。
長寿寺に隣接する白山神社(はくさんじんじゃ)は、もと伽藍鎮守のために勧請(かんじょう)された神であると考えられる。天台の護法神日吉山王七社(ひよしさんのうしちしゃ)のひとつ客人社(きゃくじんしゃ)は白山比〓(はくさんひめ)を祭神としている。これと関連してか、近江には広く白山神社が分布するが、山王七社とは切り離された状態にある場合もあり、まだ考究すべき問題が残るようである。
この白山神社の拝殿(重文)は桁行・梁間ともに三間ずつの正方形の平面プランをもち、檜皮葺、入母屋造の屋根をのせる。柱は面取(めんと)りの角柱、舟肘木(ふなひじき)といい軒裏の疎垂木(まばらだるき)といい、簡素ですっきりとした感じである。柱間は吹放ちとし、引違(ひきたがえ)の格子戸をはめる。このような軽快な建築が室町時代には多い。
長寿寺・常楽寺ともに本尊をおさめる厨子(ずし)も本堂に付属して国宝指定されているが、常楽寺の厨子が本堂と同時代のものと考えられるのに対し、長寿寺の厨子ははっきりと時代が下る。板葺の一間春日(かすが)厨子で、文明十二年(一四八〇)に一和尚・二和尚・三和尚以下、僧俗に合わせて四四人の結縁(けちえん)によって造立されたことが内部の墨書により判明する。
石部町内に現存する室町期のおもな建造物は以上であるが、大津・園城(おんじょう)寺大門(仁王門・重文)と安土・総見寺(そうけんじ)三重塔(重文)にも注意したい。
園城寺大門は棟札(むなふだ)の写しによって宝徳四年(一四五二)ごろの建造と知られるもので、三間一戸、入母屋造の堂々とした楼門である。もとは常楽寺の山門としてその偉容を誇っていたのであるが、安土桃山時代、一時衰微していた園城寺の復興期に現在地へ移建され、今日に至っている。
また総見寺三重塔は以前より甲賀郡から移されたという所伝のあったものだが、長寿寺塔址の発掘調査の結果判明した礎石配置が総見寺三重塔の柱間寸法に一致しており、この塔が長寿寺の塔であった可能性は非常に大きいと考えられる。四天柱などに残る墨書銘に文安五年(一四四八)その他の年記がみられ、ほぼ一五世紀半ばの建築であることがわかる。なおこの塔の初層内部にも真言八祖像ではないかとみられる壁画の痕跡がある。もしこれが当をえており、また本塔が長寿寺の塔であったことが確認されるとすれば、長寿寺にも天台・真言兼修時代があったことが証されよう。いずれにせよ長寿寺にもかつて常楽寺や湖東三山同様、本堂と相ならんで三重塔がそびえていたことを記憶しておきたい。
写70 総見寺三重塔(安土町) 仁王門とともに織田信長によって長寿寺から移建したものといわれる。2・3層の回りに欄干つきの回縁をもつ極めて優美な塔である。三重塔は仁王門と同様に、国の重要文化財に指定されている。