絵画

249 ~ 251ページ
当該期の絵画の遺品としては、まず白山神社の二件の板絵があげられる。
最初に三十六歌仙額(さんじゅうろっかせんがく)(県指定)は拝殿に奉掛されていたもので、八面の扁額(へんがく)形式をとる。胡粉下地(ごふんしたぢ)を施したうえ、四面に五人、残り四面に四人の歌仙を描いている。うち一面の裏に墨書銘があり、永享(えいきょう)八年(一四三六)の制作期がわかるほか、絵師土佐将監(しょうげん)、銘文筆師蜷川(にながわ)新衛門、さらに勧進に応じた出資者らの名を記している。土佐将監は宮廷絵師であった土佐行広と考えられる。連歌師蜷川親當(ちかまさ)(新衛門)が銘を記しているのは、この当時の連歌の流行の気運のなかで、三十六歌仙に対する尊崇・追慕の念が高まったことを反映するものだろう。本作例は室町以降流行した扁額形式の歌仙絵のはしりであり、また大鋸(おおが)で挽いたことのはっきりわかる板材の最古の例として、その史料的な価値は高い。
 同じく白山神社にはやはり板絵の高野四所明神像(こうやししょみょうじんぞう)が一面あり、二神が描かれる。当然、最初はもう一面あったのであろうが、現存する板絵の裏面には、良慶以下一七人の施主名のほか、文明十五年(一四八三)に絵師良秀によって描かれた高野四所明神である旨が記される。これによって、この当時の長寿寺が真言宗をも兼修していたのではないかという先の推測が、より信憑性を増すのである。
 このように室町前期ごろの長寿寺・常楽寺には、ともに真言宗の流入を推測させる要素が見出せるわけである。ちょうど両寺とも復興期にあたることは、すでに述べてきた現存諸作品が証明している。以上のことは、室町前期にこの地に来たり、衰微していた二大寺の復興に尽力した人物が、真言宗との関わりを深くもっていたことを示唆するものといえよう。このような意味において、常楽寺三重塔再建の勧進にあたった慶禅について多大の興味がもたれる。
 次に仏画では、長寿寺の十王(じゅうおう)図や常楽寺の常楽院曼荼羅(じょうらくいんまんだら)などが目につく作品である。
 十王とは冥界にあって死者の生前の罪業を裁断する閻魔王(えんまおう)ら十人の王をいう。長寿寺本の各図は一〇幅いずれも、衝立(ついたて)を背にして机に向かう唐服の王およびこれと協議する冥官を上半に配し、中央では亡者を懲(こ)らしめる鬼形の獄卒、下方には様々な責め苦を受ける亡者達を描く。十王図は一般の仏画とやや異なり、十王そのものに対する信仰の産物というよりも、堕地獄の恐怖を説いて人々を戒めるための説教画的な性格をもつものではないかと思われる。地獄における救済者としての地蔵菩薩への信仰と結びついている場合も多く、事実、長寿寺本の中の閻魔王図には、亡者を救うために雲に乗って飛来する地蔵の姿がみえる。

写71 長寿寺十王(閻魔王)図

 また常楽院曼荼羅は、天蓋(てんがい)をいただく釈迦如来以下、阿弥陀如来・薬師如来・千手観音・地蔵菩薩の計五尊を曼荼羅風に配する画幅である。常楽寺の本尊である千手観音を中心におく構成とはなっていないから、常楽寺山内の堂塔の主尊を描いたというみかたは成り立たない。あるいは日吉山王本地仏(ほんちぶつ)かとも思われるが、この場合は五尊という数字が不審となる。現在のところ明快な解釈は困難だが、当時の常楽寺における信仰の性格・状況などを探るためには不可欠の史料といえる。なお中央下方の短冊形に「常楽院 江州甲賀郡 権律師慶禅」と記されており、これは三重塔再建の勧進を行った慶禅と同一人物であろうから、およそそのころ、すなわち室町時代初期の制作と推測できよう。