石部城と佐久間信盛

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一方、織田信長の包囲攻撃を受けた六角義賢は、甲賀の土豪望月氏の協力によって、観音寺城から甲賀の入口(甲賀口)にあたる石部城に入ることができた。そして石部城籠城のあと、伊賀の音羽郷へと遁逃していくのであるが、その石部城は、石部郷(東寺・西寺・石部をもって石部三郷ともいう)石部の南方、殿代(とのしろ)に築かれた山城で、戦闘用の城塁ではなかった(『石部町史』)ようである。しかし、石部郷を支配してきた甲賀武士の青木氏(筑後守秀正)や、甲賀五十三家の一族で青木氏を名乗る石部氏(右馬允家長父子)などが居城していた(『日本城郭大系』)。
 その石部城に入った六角義賢は、甲賀武士と伊賀武士(土豪)の糾合を実らせて六角氏の再興を準備し、信長に対抗していったが、前述の通り、野洲河原の戦いにおいて敗退し、その権勢は次第に後退するのであった。
 六角義賢が野洲河原の戦いに大敗したのちの石部郷(城)は、元亀二年に織田信長の家臣で、永原城主の佐久間信盛の領有となって、寺西治兵衛の知行所となった(『石部町史』)。その石部城について義賢が山中山城守(甲賀土豪)に送った極月(十二月)二十四日の書状には、越前の朝倉、江北の浅井両氏が没落したその後で、「佐久間父子、帥(ひきい)大軍石部館、抜(ぬき)菩提寺城、於石部堅固相拘畢(とどめおわんぬ)」(『甲賀郡志』)とみえ、さらに信長が、佐久間甚九郎に宛てた三月五日(天正二年か)の書状には、「仍甲賀郡内之者□、礼得其意候、石部表執出之儀ニ付、各精入候段、弥無由断□□可落居申候条、堅可申付候」(『水口町史』『甲賀郡志』では十二月五日)とあって、石部城(館)が佐久間父子の攻撃によって落城したこと、及び甲賀郡内の小土豪が信長に帰服したことから、石部館(城)に佐久間父子が落居して、その守りと監視を一層厳しくしていったことを伝えている。
 信長直臣の武将、佐久間信盛は永原城にあって、延暦寺焼き打ち後に信長から野洲・栗太の両郡とその近郷の村々が安堵(あんど)された。その信盛の石部城(館)攻撃は、野洲河原合戦後の六角氏と、それを支援した甲賀武士の壊滅を意図したものであったことは、信長の書状によっても想像されるが、その一方には、延暦寺の末寺で天台宗の長寿寺をもつ東寺と、同じ天台宗の常楽寺伽藍が存在した西寺が、ともに延暦寺領であったことに関連して、寺領の没収はもちろんのこと、宗派に対する徹底的な征伐の意図があったことも見落してはならない。
 延暦寺の焼き打ちに続いて、長寿寺と常楽寺が存在した石部郷も兵火に見舞われ、村落を焼失した宗徒は四散していったが、幸いにも二ヶ寺は兵火をまぬがれることができた(『石部町史』)。二ヶ寺を残して焼失した「甲賀口」石部郷の村落も、惣村(そうそん)的性格を残しつつも、城(館)付きの田中・植田・谷・蓮・平野の五ヶ村が石部に村落結合をみることになっていく(『同前』)。しかしながら、信長の急死と秀吉の登場は、石部郷の支配領主も交替をみることとなっていったのである。

写76 石部城趾周辺
 野洲川を隔て手前の薮地が石部城趾。前方に菩提寺山、その後方に三上山を望む。(昭和30年代撮影)