その湖東の長浜を本拠とする秀吉は、信長直臣の佐久間信盛や柴田勝家らとともに、信長政権の確立に奔走し、活躍をみせていたが、天正十年(一五八二)六月の本能寺(京都市)の変での信長の横死は、羽柴秀吉をして全国統一政権の樹立へと向わせるのであった。
明智光秀を山城国山崎(京都府乙訓(おとくに)郡)に破った秀吉は、翌天正十一年四月に賤ヶ岳(伊香郡)の戦いで柴田勝家を破ったのち、信長後継者の地位を不動のものとして、諸政策の実現に着手していくのである。
秀吉の武力統一は、天正十八年(一五九〇)の北条氏平定をもって確認されるが、信長の諸政策を継承する秀吉は、検地や刀狩、度量衡(どりょうこう)と通貨の統一、それに身分制度の実施をもって兵農分離の改革政治をつぎつぎと断行していく。そうした改革政治に合わせて、直臣への知行の給付を実行するとともに、約二〇〇万石にのぼる蔵入(くらいり)地(直轄地)を全国に設定していった。ことに穀倉地帯近江の実態を把握していた秀吉は、一国の蔵入高としては最高の二三万石(近江国高の約三〇パーセント)を純粋な秀吉の直轄領(蔵入地)に指定したのである。そのことは、秀吉政権の近江に対する比重のいかに絶大なものであったかをうかがわせるであろう(『滋賀県市町村沿革史』)。
その秀吉は、近江の各郡に散在した蔵入地支配の代官を、知行給地の直臣たちに委任したのである。志賀・高島・神崎三郡の知行三二一石余を与え、坂本城の城番を命じた杉原家次には、志賀・犬上両郡の蔵入地二万石余を、また、石部を中心とした下甲賀と栗太郡二万三〇〇石を給付した浅野長政には瀬田城領の蔵入地代官を勤めさせている。そのほか、近江の軍事拠点となった城塁には、長浜・佐和山・八幡山・水口・日野・大溝・朽木・海津、それに大津城があったが、それらのうち日野城は蒲生賢秀、朽木谷は朽木元綱が居城して旧来の権勢と地位を維持していた。湖東の長浜城には山内一豊を、佐和山は堀尾吉晴に、八幡山は田中吉政が、水口には中村一氏、湖西の大溝は海津城の加藤光泰が移って海津を廃城とする。大津城は京極高次が居城して近江一国の軍事的支配体制は固められていったが、それらの城主も蔵入地代官を兼ねていたのである。そして天正十三年(一五八五)に、秀吉の養嗣子秀次が八幡山に封ぜられ、八幡山城主となって四三万石の知行が与えられた。その中には、湖東の秀吉蔵入地が多分に含まれていたという(『同前』)。また、八幡山城四三万石は、八幡山領はもちろんのこと、水口・佐和山・長浜城主の知行の一部も加えられるなど、直臣知行の細分化をもってする領主配置の移動にも激しいものがあった。それも重臣武将への知行給地と秀吉の蔵入地、それに遠国大名の采地(兵站部)や公家の給地など、近江所領の錯綜によるものであろうか。それはまた、近江国に対する秀吉の意図的な政策であったとも考えられるのである。
写77 豊臣秀吉像(京都市豊国神社)