石部の領主交替

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そうした所領と領主の錯綜する秀吉時代の近江にあって、先にも述べたように、石部郷(石部三郷)は天正十一年(一五八三)八月、下甲賀と栗太郡合わせて二万三〇〇石の知行が秀吉から浅野弥兵衛尉(長政)に給付されたことによって、長政(長吉)の知行所となり、その配下に位置することとなった。その時の秀吉の知行目録を示すと次の通りである(『栗太郡志』)。
江州下甲賀九千七拾石、同栗本(太)郡内、壱万千弐百五拾六石、都合弐万三百石事、目録別帋相副、令扶助畢、永代全可領知之状、如件
  天正拾壱年八月一日
             秀吉(花押)
        浅野弥兵衛尉殿
   江州下甲賀所々知行目録事
一、九百弐拾六石六斗   菩提寺        一、六百三拾八石     はりむら
一、弐千五拾八石     いしべ        一、三百石        正福寺
一、千六百石       こうじ袋       一、八百五拾石      三雲寺
一、千三百石       なつみ        一、千百拾弐石      いわね

  合八千七百九拾石
   同国栗本郡内所々知行目録
   田上郷之内
一、六百五拾石五斗    里村         一、七百拾八石弐斗    中野村
一、六百五拾六石弐斗三升 もり村        一、五百七石六斗     まき村
一、弐百三拾七石七斗八升 へた村        一、三百四拾壱石七斗六升 せき村
一、百参拾九石五斗    はご村        一、七百四拾四石弐斗   たいし
一、弐百六拾壱石弐斗参升 田村         一、弐百四拾壱石弐斗   とひ川
一、七拾四石弐斗     きりう

  合四千三百三十壱石五斗
一、千五百九拾壱石四斗  勢田郷        一、八百弐拾九石     中村
一、五百六拾七石     南笠         一、四百三拾四石     せた橋つめ
一、九百拾七石      野路         一、弐百九石       大とりゐ
一、千五百七石      上笠の内
              野むら
              かわら

 合六千九百弐拾四石四斗
一、弐百八拾石     下甲賀正福寺與力青木左京進
 都合弐万三百石
   天正拾壱年八月朔日
            秀吉(花押)
        浅野弥兵衛尉殿

 実計算では二万三一五石九斗である。石部の二、〇五八石は、全体の約一〇パーセントにあたるが、知行地村落の個々の石高では最高であった。その石高と村落の関係は、太閤検地帳が現存しないので明らかにできないが、慶長七年(一六〇二)の検地帳では石部一、五八一石余、東寺四三二石余、西寺三四一石余の合計二、三五四石余であるから、長政の知行地石部は、近世村の三ヶ村を含む石部郷全体であったと考えてよいであろう。
 領主浅野長政は、天正十一年の暮には坂本城(大津市)に移り(『新修大津市史』)、同十三年(一五八五)には、のちに佐和山城主となった堀尾吉晴と共に、大坂の石山一向一揆(一五七〇~八〇)を破った中村式部少輔一氏がその功により甲賀・蒲生両郡六万石の知行が給付されて岡山城(水口城・水口町)を築城したそのことから、石部の領主は中村一氏に交替をみたのである。
 その後天正十八年(一五九〇)、小田原北条氏の征討に軍功のあった中村一氏は、駿河国(静岡県)に一四万五、〇〇〇石の知行が与えられて府中(静岡市)に転封となり、秀吉側近の武将で五奉行の一人であった増田長盛が岡山城に入って、石部の領主も長盛へと交替していく。その長盛も、文禄元年(一五九二)の秀吉の朝鮮出兵(文禄の役)に功があったとして文禄四年七月、大和郡山(奈良県大和郡山市)に二〇万石が与えられて郡山城に移っていったのである。

写78 膳所城
 慶長6年(1601)、徳川家康が築城し、大津城を廃して城主戸田一西らを移らせたもの。本丸・二ノ丸が琵琶湖につき出た典型的な水城である。明治維新後、もっとも早く廃城になった城である(『伊勢参宮名所図会』)。

 増田長盛のあと岡山城には、同じ五奉行の一人長束大蔵大輔正家が三代目城主として入城し、石部は四人目の領主交替をみたが、石部三村落はすでに領主を異にしていたのである。
 それは、徳川家康の在京料のためであった。家康は天正十四年以来、参勤在京のため、秀吉から近江国守山あたりに三万石の在京料(采地)が与えられていた。そして同十八年(一五九〇)に関東への転封をもって守山付近に六万石が加増されて九万石となる。その内訳は野洲郡内六万四、〇〇〇石余、甲賀郡内一万二、〇〇〇石余、蒲生郡内一万三、〇〇〇石余であった(『滋賀県市町村沿革史』)。甲賀郡内一万二、〇〇〇石余の中には一、〇〇〇石が石部内に置かれたという(『石部町史』)。石部の一、〇〇〇石が、石部郷三村落のどの村にあたるか明確ではないが、天正十九年に至って、浅野長政当時の石部知行高二、〇五八石が、石部村一、六四〇石余、東寺村四五八石余、西寺村四〇七石余と、三ヶ村に分けられている(『滋賀県市町村沿革史』)ことからみれば、石部村の約三分の二が家康の采地(蔵入地)となっていたことになる。
 したがって、石部は石部村の一、〇〇〇石が徳川家康に、東寺・西寺村に石部村の残り六四〇石余が岡山城主の領有であったことになるが、家康と石部の関係をみると、天正十二年三月、石部を中心に一帯の地侍からなった一揆(石部一揆)の中心人物石部右馬丞に対して家康が「此節在々被示合、時分相叶可忠節事専一候」返書を送って、所在の衆の糾合をもって忠節を尽すよう命じている(『譜牒余録』『大日本史料』)。したがって、石部と家康の関係が在京科の指定以前にあったことが知られるのである。
 長束正家(岡山城主)と徳川家康(当時駿府居城)を領主とした石部三ヶ村も、慶長五年(一六〇〇)の関ヶ原の戦に豊臣軍が敗退し、長束正家も同年九月、近江国日野(日野町)で自刃したため、石部三村全域が徳川家康の所領(蔵入地)となった。しかしその翌年の慶長六年からは、長束氏の所領であった東寺・西寺両村が膳所城主戸田左門一西(かずあき)及びその子采女正氏鉄(うじかね)の所領となり、元和(げんな)三年(一六一七)には膳所城主の交替で本多縫殿助康俊(やすとし)が領主に、さらに翌元和四年からは同城主菅沼織部正定芳(さだよし)が領主へと交替していった。一方、徳川家康の蔵入地石部は、家康の近江代官吉川半兵衛が最初からの支配代官を勤めていた。それも元和六年(一六二〇)に菅沼定芳の所領(支配)へと移って、石部三ヶ村もようやく一領主のもとに統一されることとなったのである(『石部町史』『水口町史』『甲賀郡志』)。