織田信長横死の後をうけた秀吉は、大阪に大坂城を、京都に聚楽第(じゅらくだい)・伏見城・大佛殿(方広(ほうこう)寺)・土居(どい)(土塁)と、つぎつぎに大土木事業を完成して天下にその威風を示すとともに、刀狩や検地を実施して兵農分離政策を着実に実行していったのである。
その中でも検地は、最も重要な政策のひとつであって、天正十一年(一五八三)から文禄年代を経て慶長三年(一五九八)までの一五年にわたって全国各地で実行されていった。したがってこの検地を「天正・文禄の検地」または「文禄検地」ともいう。
検地は、田畠などの耕地や山林の面積を丈量し、生産高および年貢(貢租)の収納量、それに耕作人(名請人)を確実に把握するためのものであった。そのためには検地に先だって度量衡の統一が必要である。秀吉は曲尺の六尺三寸をもって一間、三〇歩(一間四方を一歩)を一畝、一〇畝(三〇〇歩)を一反、一〇反を一町とする長さと面積の統一をはかり、全国共通の京枡を指定して量の単位も石(こく)を最高に斗・升・合・夕(十進法)と定めたのである。
度量衡の統一をもって、全国に実施をみていった秀吉の検地は、中世末にみられた複雑な土地所有関係を改めて、それを一元化することであった。中世ではひとつの土地に複数の人(領主)が権利をもって収穫を配分したり、領主と農民(生産者)の間には、年貢を請け負う地主(中間層)などがいて、農民が納入する年貢の全額がそのまま領主に届かなかったりした。そのため、中間層の搾取を排除して、農業生産の全剰余を領主が直接収奪できるように改めたのである。したがって、耕地(田畠)については一地一作人制がとられ、耕地を保有(所持)する耕作人には貢納年貢を義務づけたのである。
そして耕地の収穫高は、生産物を玄米の収穫高に換算して石・斗・升で表示されたが、その石盛(こくもり)の基準は上田一石五斗、中田一石三斗、下田一石一斗、上畠一石二斗、中畠一石、下畠八斗、屋敷地一石二斗で、下々田・下々畠や林野についてはその実状にそくして定められたのであった。そしてその上で検地帳が作成されるわけであるが、検地帳(水帳ともいう)には一地(一筆)ごとの耕地面積(反畝歩)と耕作者、それに石高が記載されてその最後の集計にはその村の石高(村高)が決定をみたのである。
検地帳集計による村高は、その村の総百姓の連帯責任で年貢を納入する「村請制(むらうけせい)」がとられたのであった。そして、一地一作人制を基礎とする村請制への改革は、複雑であった中世の土地所有関係や貢租の納入形態が解消されたと同時に、荘・郷・村の重層的な区分も廃止されて、「村」が行政上の単位となっていった。ここに近世の村の出発があったのである。
石部郷のもとに統一されていた東寺・西寺・石部の三つの村が、東寺村・西寺村・石部村として独立していくのも、太閤検地の実施によるものである。