近江国の太閤検地は、天正十一年、同十二年に湖北と湖東の村々で実施されて以降、天正十三年、同十九年(一五九一)、慶長三年へとたびたびの検地(さお入れ)をみていった。
しかしながら、検地帳の現存するものは少なく、最も多く保存されているのは蒲生(がもう)郡八日市(ようかいち)市域である。同市今崎の引接(いんじょう)寺には、天正十一年七月七日の「江州蒲生郡保内今在家」の検地帳と、天正十二年十一月六日の「江州蒲生郡内今在家検地帳」、それに隣村の同市今堀には、断片ながら天正十二年八月十九日の日付がみえる「今堀村検地帳」が残されている。そのほか、同市の中野では天正十九年に、今在家・中野・金屋(神崎郡)では慶長三年にそれぞれ検地のさお入れがあった。
一方、八日市市以外ではマキノ町にあたる高島郡川上庄大沼村の検地帳が、記録の上では現存とあるが、昭和六十二年(一九八七)に発刊された『マキノ町誌』では「不明」となっている。また、坂田郡長浜市の旧八条村や、東浅井郡湖北町の旧猫口村(浅井郡)でも、天正十九年に検地が実施された記録をとどめている。
甲賀郡内の石部町については、太閤検地に関する記録は今のところ発見されていない。大正十五年(一九二六)刊行の『甲賀郡志』に「天正十七年に増田長盛・長束正家等の測地」とあるのみである。しかし、土山町の旧黒瀧村には「御検地帳指出、江州甲賀上郡黒瀧村、天正廿年八月吉日」の記録をみることから、黒瀧村では天正二十年(一五九二)には検地が終わっていたとしている(『土山町史』)。また、石部町の近郷草津市には、天正十九年正月二十一日の「近江栗太郡志之内吉田村御検地帳」と、「江州栗太郡蘆浦村御検地帳」(以上写本)の二ヶ村の検地帳が現存している(『草津市史』)。
ところで、石部町を含む近郷近隣の村むらでは、徳川家康によって実施された慶長七年(一六〇二)の検地帳が多く現存している。「古検」にあたる太閤検地帳が不明なため、現存する慶長七年の検地帳について検討を加えておくことにする。なお、この慶長の検地が「古検」であるかどうかは、必ずしも明らかでない。