慶長の検地は、豊臣政権(秀頼)の存在するなかで、近江国を徳川の重要拠点(大坂の陣に向けて)に位置づけた家康が、近江国の生産力、年貢の収納量(兵粮米の確保)を把握することと、関ヶ原戦後の処理である家臣への所領宛行(あておこない)のための基礎台帳を作ることにあったとされる。
したがって、近江一国惣検地は、きわめて短期間に急速に行われていった。そのため検地帳には、各筆および集計とも斗代(とだい)・分米(石高)の記入はされなかったのである。
石部町には、慶長七年九月日付の検地帳が東寺・西寺・石部の三ヶ村とも現存しており、検地奉行は東寺村が坂井主水(徳川代官)、西寺・石部両村は林伝右衛門(徳川代官)であった。
西寺村検地帳は、田方・畠方・屋敷方の終りに集計の「惣目録」があり、その最後に「紙数八十六枚上下共ニ」と記載された一冊である。石部村の検地帳は「田方」と「畠方屋敷方」とに分かれ、田方には「紙数六十八まい上下共」とはあるが惣目録はない。畠・屋敷方には惣目録があって「紙数八十壱まい上下共」と記載されるが、二冊とも表紙に「三帖之内」とあって(写79)、一冊の欠けていることがわかる。それは多分「田方」であろう。東寺村検地帳にも集計は記載されているが、紙数の記述はなく一冊である。
写79 江〓甲賀郡石部村御検地帳 慶長7年(1602)に作製されたもので、東寺村・西寺村にもそれぞれ1冊ずつ残されており、江戸時代初期の史料として大変貴重なものである(石部町教育委員会所蔵)。
そしてそれら現存の四冊には奉行の印判はなく、しかも西寺・石部両村の検地帳に「上下共」とあることから、上下二冊の検地帳(原本)を整理したことが考えられる。また、惣目録(集計)には斗代と分米が記載され、その量の基準が「京枡也」とある。したがって、現存の検地帳が写し(写本)であることに間違いないが、東寺村検地帳には「古検地帳」の追加表紙がなされている。なお、検地棹の明記はないものの、太閤検地と同じ六尺三寸棹であったかと思われる。
検地帳の記述は、耕地の田畠が上・中・下・下々・荒の五等級で表示され、それに屋敷地を含めた一筆ごとの面積(反畝)と名請人(なうけにん)(本百姓)が記載されているが、各一筆の分米の記載はない。しかし、現存の検地帳が写しのためか、三ヶ村とも田・畠・屋敷方の区分による反別・斗代・分米の集計(惣目録)があがっている。そこで、その三ヶ村の惣目録を整理したのが表4である。
東寺 | 西寺 | 石部 | |||
---|---|---|---|---|---|
区分 | 斗代 | 斗代 | 斗代 | ||
上田 | |||||
1.5 | 169.5.1.0 | 1.5 | 76.9.8.5 | 1.6 | 481.7.2.7 |
中田 | |||||
1.3 | 29.2.7.6 | 1.3 | 68.6.1.8 | 1.4 | 309.0.9.2 |
下田 | |||||
1.1 | 4.1.7.7 | 1.1 | 50.3.0.6 | 1.1 | 215.1.1.6 |
下々田 | |||||
0.5 | 49.1.3.5 | ||||
荒田 | |||||
1.1 | 57.9.2.9 | 1.1 | 59.8.8.4 | 1.1 | 299.1.8.9 |
小計 | |||||
260.8.9.2 | (255.7.9.3) | (1354.2.5.9) | |||
上畠 | |||||
1.1 | 86.7.2.4 | 1.2 | 30.5.5.2 | 1.1 | 30.5.2.9 |
中畠 | |||||
0.9 | 8.1.9.9 | 1.0 | 11.6.1.0 | 1.0 | 33.8.9.0 |
下畠 | |||||
0.8 | 7.2.2.8 | 0.9 | 31.3.8.9 | ||
下々畠 | |||||
0.5 | 5.4.2.8 | ||||
荒畠 | |||||
0.7 | 64.4.9.9 | 0.8 | 28.9.5.3 | 0.8 | 73.8.2.6 |
屋敷 | |||||
1.6 | 6.7.5.1 | 1.2 | 7.3.6.4 | 1.1 | 51.8.6.8 |
小計 | |||||
166.1.7.3 | (85.7.0.7) | (226.9.3.0) | |||
合計 | |||||
427.0.6.5 | 341.5.0.0 | 1581.2.0.0 | |||
山手米 | |||||
4石 |
表4の斗代では、上田・中田とも石部が一斗高いが、屋敷では東寺より四斗から五斗も低くなっている。また、反畝と分米では石部が極端に多い。それは東寺・西寺の両村が、山林を背景とする丘陵地であるのに対し、石部村が東海道筋にあたる平坦部に位置するためであるが、東寺・西寺に下々田・下畠・下々畠の存在しなかった点は注目されてよいであろう。
しかしながら、三ヶ村全体でみれば荒田・荒畠の面積が多い。それを耕地全体の割合でみると、荒田が約二五パーセント、荒畠が約四一パーセントにあたる。それが村別では、西寺の荒田二七パーセント、東寺の荒畠四七パーセントと、最も多い。それは急流をなす谷川の氾濫や、山裾の土砂崩れによるものであろうか。なお、石部村の山手米四石は、後述(第二章第四節)するように石部山の山年貢である。
そこで、最も整理されていると思われる西寺村検地帳をあげて、詳しくみていくことにしよう。