西寺村の検地帳

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慶長の検地帳には、検地が短期間で急速に行われたことから、斗代や分米が省かれたが、年貢を収取する領主にとっても、それを負担する村方(村請)にしても、斗代・分米・村高の決定は必要であり、かつ重要である。
 石部町に現存する検地帳は、それが写本であるため、惣目録の中に斗代・分米が書き加えられており、これらの写本が三ヶ村の土地台帳として使用されたことが考えられる。
 西寺村検地帳の整理にあたっては、名請人の田畠屋敷面積(反畝)にそれぞれの斗代を乗じて分米を算出し、順番とした。それが表5である。特に表5の合計では、反畝・分米とも惣目録合計とかなりの開きがある。それは写本のためであろうか。
表5-①西寺村検地帳
名請人分米耕地面積屋敷屋敷備考反畝計
上中下田荒田上中下畠荒畠反畝
石斗升合反畝歩反畝歩反畝歩反畝歩畝歩町反畝歩
1伊賀17.0.5.59.3.251.023.5.1645.01明やしき(2)1.3.5.14
2大蔵13.5.6.27.5.161.6.241.2.033.1823.181.1.1.19
3久内13.1.0.35.0.253.1.062.8.161.1.0.17
4市蔵12.5.9.57.2.016.121.6.1125.18あきやしき(1)1.0.0.12
5河内10.1.0.15.7.217.241.4.172.248.2.26
6弥蔵9.5.7.44.9.162.2.0312.16馬(1)7.4.05
7かわち9.1.3.44.8.214.001.5.2811.18牛(1)7.0.07
8三六9.1.3.34.3.121.0.032.1.1123.14あきやしき(1)7.8.10
9越前8.9.4.84.7.141.2.107.056.0012.28あきやしき7.5.27
10又蔵7.6.9.74.4.111.3.2312.03牛(1)6.0.07
11文内7.2.2.95.1.221.2512.04あきやしき5.5.21
12新蔵7.0.1.33.8.224.111.2.242.1912.126.0.28
13京音6.4.3.64.4.20283.1822.12あきやしき(1)
牛(1)
5.1.18
14文七6.3.9.43.9.286.064.6.04
15小四郎5.9.8.42.5.026.021.5.0811.184.8.00
16妙善5.8.5.62.7.216.041.1.2012.04馬(1)4.7.19
17実善5.6.2.34.6.014.6.01
18与蔵5.4.0.82.8.063.161.2.0312.12牛(1)4.6.07
19左近5.1.7.03.8.142.2911.024.2.15
20善行5.1.4.92.5.041.5.114.0.15
21常真5.0.6.53.3.166.00123.9.28
22圓京4.4.2.63.1.22202.1012.243.7.16
23福善4.3.5.51.6.023.191.5.2311.06牛(1)3.6.20
24万蔵3.8.0.92.1.209.193.1.09
25久蔵3.7.5.31.9.154.026.092.9.26
26角善3.6.0.91.6.291.0.202.7.19
27与一3.4.2.31.4.246.247.182.9.06
28虎後家3.2.1.91.9.071.204.2811.12牛(1)2.7.07
29常善3.1.8.51.6.067.242.4.00
30覚善3.1.0.12.2.2113.00牛(1)2.5.21
31文蔵3.0.8.38.161.4.1211.27牛(1)2.4.25
32作蔵2.9.3.41.4.185.2511.182.2.01
33大郎2.8.0.03.5.003.5.00.
34用蔵2.7.1.11.7.12291.8.11
35福圓2.5.3.01.1.062.087.202.1.04
36どヽ2.5.2.91.7.0315.12永荒あきやしき2.2.15
37常心2.5.2.61.7.011911.08牛(1)1.8.28

表5一②西寺村検地帳
名請人分米耕地面積屋敷屋敷備考反畝計
上中下田荒田上中下畠荒畠反畝
38京仙1.8.1.01.2.031.2.03
39与市1.7.8.71.0.111.2012.17牛(1)1.4.18
40常林坊1.7.6.95.149.181.5.02
41すけ1.6.8.02.1.002.1.00
42竹林坊1.6.2.79.006.001.5.00
43くり1.6.2.3267.108.241.7.00
44福仙1.6.0.38.123.231.2.05
45善万1.4.6.73.016.014.141.3.16
46東寺与蔵1.4.1.93.099.181.2.27
47石後家1.2.5.08.108.10
481.2.0.61.0.291.0.29
49善京1.1.7.68.138.13
50彦四郎1.0.9.69.06239.29
51宗泉1.0.1.06.226.22
52角蔵1.0.0.56.216.21
53孫二郎9.5.78.218.21
54亀後家9.4.65.2411.18あきやしき7.12
55甚内9.2.01.1.151.1.15
56あかき9.0.21.034.1512.067.24
57妙圓8.6.55.235.23
58堂心8.5.45.152.087.23
59菊善8.4.95.251.267.21
60たうくわん7.9.27.067.06
61行福7.7.52.183.156.03
62宗作7.5.96.276.27
63たう7.0.41.085.046.12
64小六7.0.46.126.12
65教音6.7.95.205.20
66めうせん6.7.15.055.05
67経音6.6.66.206.20
68来福6.4.02.121.1827108あきやしき5.05
69衛門6.1.67.217.21
705.9.85.135.13
71宗清5.9.6104.295.09
72ちくわん5.5.54.084.08
73分蔵5.4.14.054.05
74印徳5.4.05.125.12
75妙心5.2.36.166.16
76徳善5.0.31.103.004.10

表5-③西寺村検地帳
名請人分米耕地面積屋敷屋敷備考反畝計
上中下田荒田上中下畠荒畠反畝
77京徳4.5.13.17164.03
78相作4.5.15.195.19
794.4.04.004.00
80妙うん4.3.55.135.13
81けんさ4.1.63.063.06
82万蔵こけ4.1.43.233.23
83教善3.8.43.063.06
84大一郎3.7.34.204.20
85与二郎3.2.22.282.28
86すい免2.8.62.182.18
87圓教2.7.73.143.14
88妙言2.7.51.251.25
89与六2.6.6182.153.03
90春あ弥2.4.92.082.08
91衛門三2.4.53.023.02
92たわら2.4.22.062.06
93福泉2.4.02.002.00
94正仙2.2.01.141.14
95与一郎1.7.51.051.05
96〔〕門1.6.22.012.01
97ずいうん1.5.41.121.12
98浄善1.4.411.06牛(1)1.06
99豊蔵1.1.31.011.01
100石千代1.0.32828
101才次1.0.0125あきやしき25
102岩後家9.6124あきやしき24
103〔〕六9.31.051.05
104与作7.72121
105善徳6.61818
106妙蔵5.51515
107妙真5.32020
108地蔵4.01010
109だうぜう2.055
110玄作下々畠2.282.28
111無主35.6.3.01.8.5.131.9.0.123.7.5.25
309.9.7.2牛(11)
馬(2)
13.9.3.164.4.5.274.3.0.293.0.8.20376.9.01あきやしき(12)26.4.8.11
惣目録記載計341.5.0.0
14.9.8.125.4.4.124.6.1.023.6.1.266.1.1129.2.7.03

 表5では、荒田・荒畠のみの「無主」(村負担分か)を除いて名請人が一一〇人と非常に多い。それを名請人の分米(持高)でみると、一〇石以上が五人、五石から九石台が一六人、一石から四石台は一三人、一石未満五八人と、農業経営を維持していくことの難しい名請人が半数以上を占めている。そのうち、屋敷地を登録している者は三〇人(筆数三七)であって、屋敷地登録者からすると名請人数は約三倍、筆数では三・七倍となる。西寺村の戸数・人口を村明細帳と宗門改帳からみると、享保(きょうほう)十七年(一七三二)が四三戸の二五二人、宝暦(ほうれき)二年(一七五二)で五〇戸である。すると、屋敷地登録者の三〇ないし筆数の三七を家数と考えてよいであろう。そしてその家数をもってすれば、多数の名請人たちは一家の中から複数の者が、また家父長に隷属する下人(げにん)などの登録のあったことが考えられるのである。なお、名請人の中には「後家」が五人、僧侶と思われる「坊」が二人あがっている。後家五人のうちでは、虎後家・亀後家・岩後家の三人が屋敷地登録者になっているが、常林坊と竹林坊の二人は一石七斗から一石六斗台の分米でありながら屋敷地はない。そのほか、名請人には妙圓・妙心・圓教・妙真など、僧名を思わせる名請人の多いのに注目される。それは、当村に大伽藍を誇った常楽寺(天台宗)との関係によるものであろうか。
 一方、西寺村より耕地面積が六町八反八畝歩余、分米で八五石五斗余(表4)上回る東寺村の検地帳をみると、名請人は二四四人で、西寺村の二倍を越えている。そのうち屋敷地の登録者は四四人であるが、屋敷方筆数も四五筆であって、一人一屋敷の特徴をみせている。その東寺村の家数・人口を、幕末期の天保九年(一八三八)で示すと戸数五〇戸、人口二五七人である。
 そのほか、東寺村の名請人の中には、後家六人、うハ(乳母)三人、そして西寺村と同じく、伝蔵坊などの「坊」が一三人もみえる。また、行覚・定覚・浄心・妙善などの僧名を思わせる者も多数にのぼっている。これも当村に天台宗の長寿寺が存在したことによるのであろうか。両村ともそれらの名請人については明らかにできない。
 ところで、西寺・東寺・石部三ヶ村が検地帳の上で比較できる点は「屋敷方」である。そこで次に、屋敷地とその登録者についてみておこう。