屋敷地と名請人

280 ~ 282ページ
東寺・西寺・石部三ヶ村の屋敷地を面積別に比較したのが表6である。表6でみると、東寺村では一畝台とそれ以下が三七筆で全筆数の約八二パーセントを占め、西寺村は一畝~二畝台が二七筆の七三パーセントで、一畝以下の小屋敷地は七筆である。石部村も一畝~二畝台に集中して一六六筆と、全筆数の約七七パーセントを占め、三ヶ村では西寺・石部両村の一筆あたりの面積の広かったことがわかる。
表6 面積別屋敷地筆数
東寺西寺石部
区分
5畝以上113(1反,7畝の2筆を含む)
4畝台2112
3畝〃1120
2畝〃41183
1畝〃201683
1畝以下17714
計(筆数)4537215
登録者数44人30人168人
(東寺・西寺・石部各村の慶長検地帳による)

 そうした屋敷地面積の傾向に違いをみせる東寺村は、筆数四五に登録者四四人と、二筆の登録者一人のほかは一人一筆であった。二筆の一人は、四反四畝六歩の田畠(耕地)を名請する「あかき」で、屋敷地は四畝と二一歩であった。また五畝台の一筆は、三反二畝一四歩の田畠名請人「祐泉」であり、四畝台の今一人は、五畝九歩の田地名請人「行善」である。三畝台は五反九畝二三歩の名請人「藤岡」であるが、藤岡は庄屋であった(庄屋は後日加筆されたもの)。庄屋(庄や)の加筆は「いつも(出雲)」(屋敷地二畝)にもある。その「いつも」の名請田畠は八反四畝一七歩である。
 西寺村の一畝以下は七筆であるが、四筆の登録者が一人、二筆は三人でほかの二六人は一筆という、屋敷地の登録者は両極に分かれていた。その中の五畝以上は「どゝ」の五畝一二歩であるが、この屋敷地には「永荒・あきやしき(明屋敷)」の加筆がある(表5)。四畝台は市蔵で、市蔵は四畝歩と一畝一八歩の二筆の登録者でもある。二筆の登録者は表5の通り、市蔵のほかは大蔵と三六である。三畝台の一筆は覚善で、牛一頭を所有している。四筆の登録者は伊賀で、西寺村での最高の耕地名請人であったが、屋敷地は一畝台とそれ以下で、二屋敷には明屋敷の加筆がみられる。
 西寺村検地帳の「屋敷方」に、屋敷地登録者の飼育牛馬数(牛一二・馬二頭)や「あきやしき」(一二筆)の記載のあることは、表5および前述の通りであるが、これらの記載が加筆であることにはほぼ間違いないものの、記入年代が不明のため検討が困難である。しかし、多数の名請人からして明屋敷一二筆には疑問もあるが、西寺村が慶長七年以降に、何らかの理由で一時衰退の状況にあったことは考えてよいであろう。
 東寺・西寺の両村に対して、東海道石部宿をもって近世に賑わった石部村は、検地帳の一部の欠落から、名請人個々の反畝は計算できないまでも、屋敷地は二一五筆、登録者一六八人を示している。それは宿場町石部宿によるものであろう。
 屋敷地の登録数では五筆が一人、四筆二人、三筆五人、二筆二六人で、残りの一三四人は一筆となっているが、五畝以上の中の一反八歩は「くら屋しき」、七畝一一歩は小衛門で、今一人は五畝一二歩の新兵衛である。また、四~三畝台の屋敷地は三二筆と、規模的に広い屋敷地が多いが、登録者で注目されるのは「たかや」「えびすや」「柳屋」「ほてや」「おけや」「米屋」「らこや」など、屋号での登録である。それらの屋号すべてが街道筋であったかどうか明らかでないが、えびすやを除いてすべてが一筆であった。えびすやは五筆の屋敷地を登録しており、当時有力な商家であったことが想像されるのである。
 石部村はその後の享保六年(一七二一)、戸数三六七戸、人口一、八七六人へと増加していく。これも石部宿の発展によるものであるが、そこには屋敷地(広さを含む)や屋号での登録も多くなったことであろう。

写80 屋号の記載 石部村の慶長検地帳には、「をけや」「柳屋」などの屋号が確認できる。人名ばかりでなく、このような屋号がみられるのは街道筋に位置する石部村の特徴といえよう。