図38 近世近江の交通図
この唐橋は、天正三年(一五七五)に織田信長が、彼の居城である岐阜から京都への交通の重要拠点として架橋した幅四間(七・二メートル)、長さ一八〇間(三二四・〇メートル)のものである。また信長は、天下統一を目指して商品流通の円滑化や軍勢の移動に際しての便宜といった点から、当時の領地であった尾張・美濃・近江三国の関所撤廃など交通の自由化を図っている。このことは、『信長公記(しんちょうこうき)』に「天下の御為(おんため)、且(かつ)往還旅人御憐愍(れんびん)之儀思(おぼ)し召され」と記している。さらに分国中に幅三間二尺(五・七六メートル)の道路を通し、その両側に松や柳の並木を植樹するなど、交通網の整備に力を注いだ。
天正十年(一五八二)、信長が本能寺に倒れると、かわって豊臣秀吉が天下統一に乗り出した。彼は交通政策の点においては信長の政策を継承・発展させ、中央官庁が職務執行のため通常経費の不足分を補填する目的で設置された皇室領率分関(そつぶんせき)をも含む関所を撤廃、一里三六町の里程を定めて、各街道に一里塚を築造するなど、より一層の交通路の整備を図った。しかし、従来の戦国大名が自国の防御と繁栄を願って各分国内においてのみ実施していた各々の宿駅制度を、秀吉がいかに統一的に包摂するかが、彼にとって大きな課題であったが、その実態は明らかではない。ただ、次に述べるように秀吉が東海道・中山道の各宿場に対する人馬調達を命じているなど、次第に宿駅制度の中央政権化を進めていった点は明確にうかがえるのである。
先にみてきたように、織豊期には従来の戦国大名の分国支配下での交通政策に比して、いくぶん広範で画一的な政策が展開されたとはいいながらも、その権力の及ぶ範囲は限られたものであった。しかし、信長は早くからこの近江の地を交通の要衝として重視し、その利用と整備に着目していた。
信長は、岐阜や安土と京都を往来するのに草津に至り、そこからは陸路や湖上で大津へ、そして京都へ入るといった記録が『信長公記』に幾度となくうかがえる。このように甲賀郡に隣接した栗太(草津市・栗東町・大津市の一部)の地では早くから信長が目をつけ、交通上重要な位置を占めていたことは推測できるが、石部ではこの時期にそうした点について特筆できる史料は見当らない。
しかし豊臣秀吉が天下統一の機運を高めると、交通政策も大きく改善された。次にみるように石部もおおよそこのころ宿駅として登場してくるのである。