石部が人馬継ぎ立ての地として初見される慶長二年(一五九七)の仏龕輸送において、役夫・伝馬を課せられた宿場をみると、近江国内の東海道に限れば、土山・石部・草津・大津であった。そして大津から京都へ継ぎ送っており、これは四年後の慶長六年に、徳川家康が下した朱印状や伝馬定の発せられた宿場とも同一である。このようにみると、ほぼこの時期に近世の宿駅そのものも確立され、人馬の継ぎ立てについても制度化されつつあったと考えてよいであろう。しかしながらこの時期の街道整備の状況や通行に関する史料が少なく、多くをうかがうことができないのが残念である。