先にみてきたように、この石部の地を、正式に街道沿いの人馬継ぎ立てに使用したのは豊臣秀吉であった。しかし、その時の近世的宿場としての機能の存在については定かではない。
天正十八年(一五九〇)には、徳川家康は吉川半兵衛を近江の代官に任じて、翌十九年には代官屋敷改築のため永楽銭五〇貫を与え、東西交通の本陣として使用したと言われている(『小島忠行家文書』「吉川家由緒書願書写」・『石部町史』)。この後も、家康に仕えた松平家忠の日記『家忠日記』によれば、家康は文禄元年(一五九二)にも吉川家に宿泊している。これらは、のちの本陣が広く諸侯の休泊に供されたものであるのに対して、徳川氏の利用に限られたものであった。またその吉川半兵衛は、近江の代官として当時この付近における家康の伝馬御用も担当していたことが『石部町史』に記されている。
しかし、この段階ではまだこうした徳川氏の交通政策も彼の支配の及ぶ範囲に限られており、一方では豊臣秀吉の統一的な交通政策も施されていた。すなわち、先にみた慶長二年(一五九七)の信濃善光寺の仏龕移送に際しての人馬の調達に関して、秀吉の家臣である長束正家や新庄東玉などが担当しているのである。
ただ、石部に限ってみるならば、支配領主に関してのみではあったが、その休泊施設としての本陣も整えられ、また人馬の継ぎ立ても、常時ではなかったが応えうるだけのものが整えられていたという点では、すでにこの時期に近世的宿駅が成立しつつあったのではないかと考えられるのである。