家康の近江支配

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慶長(けいちょう)五年(一六〇〇)の関ケ原合戦は、天下における情勢を大きく変化させ、勢力を伸長しつつあった徳川家康の政権樹立をより明確なものにした。さらに慶長十九年(一六一四)・元和(げんな)元年(慶長二十年)の大坂冬の陣・夏の陣により、豊臣勢力を完全に打ち砕き、加えて家康が慶長八年に征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)に任ぜられることで名実ともに天下の覇者となった。
 もともと徳川氏の勢力基盤は関東周辺が中心であった。関ケ原合戦以前からの畿内における徳川氏の唯一の勢力基盤であったのは、家康が豊臣秀吉から京都での諸経費として宛行(あてが)われた在京賄料の、近江における野洲・甲賀・蒲生三郡の九万石のみである。しかし、合戦後は各地で豊臣勢力を排除して、徳川氏の門閥や譜代の家臣たちを大名に取り立て、徳川氏の直轄地などを着実に増やしていった。中でも畿内における徳川氏の脆弱な基盤を補うために、先進地域でもある山城(京都府)をはじめとして丹波(京都府・兵庫県)・近江の地で自らの領地としての掌握が活発になされた。
 近江では、湖北佐和山(彦根市)にあった豊臣側の総大将石田三成の所領一九万五、〇〇〇石、五奉行の一人で甲賀郡水口(水口町)にあった長束正家の所領五万石などを没収した。そしていちはやく譜代の家臣井伊直政を彦根、戸田一西(とだかずあき)を膳所へとそれぞれ配置して次々と基盤の拡大につとめていった。また、これ以外にも近江国内各地で直轄領を設け、代官を配置するなど徳川勢力を強めていった。