近世前期の領主支配

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こうした近江全体の流れに逆らうことなく、関ケ原合戦後は甲賀郡の村々、さらには石部町域の村々も同様に幕府直轄領としての代官支配や徳川譜代大名の支配のもとへ組み込まれていった。表7は、石部・東寺・西寺各村の領主支配について、関ケ原合戦後の慶長期から幕末までを整理したものであるが、その表を参照しつつ各村の領主支配をみておくことにしよう。
慶長5年(1600)慶長6年(1601)慶長7年(1602)元和3年(1617)寛永11年(1634)
村名
石部村代官1521石2斗1557石8斗1升4合
吉川半兵衛膳所藩 石川忠総
東寺村膳所藩427石6升5合膳所藩427石1斗3升5合
戸田一西本多康俊膳所藩 石川忠総
西寺村膳所藩341石5斗膳所藩341石5斗
戸田一西本多康俊膳所藩 石川忠総
典拠『甲賀郡志』上巻『甲賀郡志』上巻各村慶長検地帳「甲賀郡志』上巻「寛永近江国高帳」

元禄14年(1701)寛保元年(1741)天明6年(1786)天保5年(1834)明治元年(1868)
村名
石部村1556石2斗1升4合1687石4斗9升3合1749石942
膳所藩 本多康慶膳所藩領
東寺村427石1斗3升1合代官432石7斗0升5合454石694
膳所藩 本多康慶多羅尾光豊大津県
西寺村343石1斗代官山城淀藩352石4斗9升9合352石499
膳所藩 本多康慶多羅尾光豊稲葉正益淀藩領
典拠「元禄近江国郷帳」『甲賀郡志』上巻『甲賀郡志』上巻「天保近江国郷帳」「旧高旧領取調帳』
表7 石部町域の村々の領主支配と村高の変遷

 石部村では慶長年間には幕府領として代官吉川半兵衛の支配するところとなり、東寺・西寺両村は慶長六年(一六〇一)膳所藩領戸田一西の支配となった(『甲賀郡志』上巻)。村高は、慶長七年の各村検地帳記載高によれば石部村一、五二一石・東寺村四二七石・西寺村三四一石である(『石部町教育委員会所蔵文書』・『東寺地区共有文書』・『竹内淳一家文書』)。この村高は、天保期ごろには後述する(第四章第一節)新田開発などによって若干の増加はみられるものの、ほぼ近世全般を通じて変化せず幕末に至るのである。

写83 家康移築の園城寺仁王門(大津市)
西寺にある常楽寺より慶長6年(1601)に徳川家康が園城寺へ移築したもの。左右に運慶作の密迹金剛力士像が安置されている。

 元和三年(一六一七)には膳所藩主が本多康俊(やすとし)に替わり、東寺・西寺両村も引き続き膳所藩領とされた。さらに元和七年には菅沼定芳(さだよし)の支配に替わり、東寺・西寺村に加えて石部村も膳所藩領に組み入れられたと考えられる(『甲賀郡志』上巻)。寛永(かんえい)十一年(一六三四)には膳所藩主も石川忠総(ただふさ)となり(「寛永近江国高帳」)、さらにその後も膳所藩としての支配が続く。そして、慶安(けいあん)四年(一六五一)には本多俊次(としつぐ)が膳所藩主として再入封することにより、石部村ではその支配が幕末まで続く。一方、東寺村では寛保(かんぽう)元年(一七四一)に、幕府直轄領となり代官多羅尾(たらお)氏の支配するところとなって幕末に至る。西寺村も寛保元年からは東寺村と同様に多羅尾氏の支配となり、さらに天明(てんめい)六年(一七八六)には、山城淀(よど)藩領となって稲葉氏の支配が続くのである(『甲賀郡志』上巻)。
 以上のようにみてみると、近世全般を通じ石部町域の村々の領主支配は、畿内特有の、また近江特有の一ケ村を二人以上の領主が支配するといった、いわゆる相給(あいきゅう)の形態をとっておらず、一村一領主の支配であった。参考までに近隣の村々の支配形態をみると、栗太郡の出庭(でば)村(栗東町)で一ケ村六領主、同平井村(草津市)で一ケ村七領主など、多くの村が二領主以上の支配を受け(二給以上)、非常に複雑で錯綜した所領形態をとっていた(『草津市史』第二巻・『栗東の歴史年表』)。これに比較すると、石部町域の村では当時の支配形態そのものについては、西寺村のようにたびたび支配領主の交替はみられたものの、村々の支配そのものについてはあまり混乱はきたしていなかったと推察される。