藩領と天領

291 ~ 293ページ
石部町域における三ケ村の領主支配の変遷についてみてきたが、次にそれぞれの領主の系譜についてみておくことにしよう。
 寛永十一年に書き上げられた「寛永近江国高帳」(『滋賀県立図書館所蔵文書』)によれば、石部・東寺・西寺いずれの村もその石高とともに「石川主殿」と記されており、膳所藩主石川忠総の支配するところであったことがうかがえる。膳所藩主は、先に述べた戸田一西にはじまり戸田氏鉄(うじかね)、本多康俊・俊次(としつぐ)、菅沼定芳、石川忠総・憲之(のりゆき)と続き、本多俊次が再び入封、その後は本多氏が代々襲封して幕末に至るのである(『新修大津市史』3・4)。
 近江国内における村々の領主支配が確立するのは、石部村の例でみてきたように慶長から延宝期にかけての変動を経て、およそ元禄期に入ってからであった。これは、元禄(げんろく)十年(一六九七)に五〇〇俵以上の蔵米(くらまい)取りの旗本を地方知行(じかたちぎょう)に引き上げた、いわゆる元禄の地方直しの影響による領主支配の変動がほぼ確定したことによる。膳所藩領でも栗太郡の村々でこの時期に変動がみられ、各村で領主支配の確立をみるのである。これらの変動の末、膳所藩領として組み込まれた村々の分布をみると、石部村(石部宿)をはじめとして栗太郡の草津村(草津宿)や矢倉(やぐら)・野路(のじ)(以上草津市)・笠川(かさがわ)・岡(おか)・目川(めがわ)(以上栗東町)など街道に沿った村々が多い。これは、本多俊次の膳所入封に際して、『懐郷坐談(かいきょうざだん)』が「当城は、京都に相隣候要枢の地故、俊次年老精忠旁以て仰付けられ、自然違変の節取計方深密の上意御含にて所替仰付けられ候」と記していることなどからしても、この膳所の地が京都に隣接する要地として位置づけられ、将軍家綱の思惑が多分にあったことをうかがわせるのである。このことは、膳所藩が街道警備に関して重要な役割を担っていたことを推測させる。
 石部町域で、もうひとつ大名領として存在したのが、天明六年から西寺村の領主となった山城淀藩である。淀(京都市伏見区)の地も膳所藩同様、軍事・交通の要衝にあり(『京都の歴史』5・6)、大坂の陣後に築城して松平(久松)定綱が入封。その後は、永井尚政が入封して京都方面の守護にあたった。西寺村がその所領となった時の藩主は、享保年間(一七一六~一七三六)に淀へ入封した稲葉氏で、天明六年には稲葉正益(まさよし)、その後正備(まさなり)・正発・正誼・正邦と続き廃藩置県を迎える(『寛政重修諸家譜』ほか)。なお当時の所領は、山城国久世(くぜ)・綴喜(つづき)・相楽(そうらく)・紀伊(きい)四郡(京都府)一万九、三四七石をはじめ、摂津国嶋下郡(大阪府)、河内国若江・渋川・高安(たかやす)(大阪府)、近江国甲賀・野洲・栗太、越後国三嶋(新潟県)、下総国香取(しもうさのくにかとり)・印旛・埴生(千葉県)など各地に点在していた。
 東寺・西寺両村は、寛保元年には、幕府の直轄領、すなわち天領となり、その実質的支配は信楽代官多羅尾氏があたった。代官多羅尾氏については、残念ながら史料が乏しいので詳細を知ることはできない。ただ、多羅尾氏が、近衛家領甲賀郡信楽庄(信楽町)に代々居住する名門で、織田信長や徳川家康に仕えた家柄であったことは知られている(『甲賀郡志』上巻・『八日市市史』2)。もうひとり慶長期に石部村の領主であった代官吉川半兵衛についても詳細は不明である。しかしながら隣接する正福寺(しょうふくじ)村(甲西町)が、元和七年まで吉川半兵衛の所領であることなどからして(甲西町『青木八郎右衛門家文書』「系図」)、この石部村の場合も、おおよそ元和期ごろまで代官吉川半兵衛の支配するところであったと考えられるが、その系譜についてはほとんど知られていない。

写84 多羅尾代官屋敷跡(信楽町)
多羅尾氏は寛永15年(1638)より幕末まで230年間、天領信楽代官の職を世襲した。東寺・西寺両村は寛保元年(1741)より支配下となった。