近世の農村支配

293 ~ 294ページ
石部町域の村における領主支配については、先にみてきた通りである。次に、それらの領主のもとに置かれていた村々がどのような支配を受けていたかをみたい。
 一般に近世の村落支配の根底に置かれたものは、土地・年貢・人身の三点であった。土地については、すべての村に検地を実施し、村の隅々に至るまで田畠・屋敷地を実際に測量した。そしてその面積とともに収穫高を石高で換算して「検地帳」といった土地台帳に登録し、領主とその土地の実際の耕作者を決定したのである。また、年貢については、検地の実施に基づいて作成した検地帳を基本に年貢を賦課していった。その年貢はすべて村を単位として課せられており、村を単位として納入することが義務付けられていた。これらが近世社会における大きな特徴をなした石高(こくだか)制・村請(むらうけ)制といわれるものである。
 人身の支配については、近世の社会的特質のひとつでもある兵農分離のもと、在地領主制は存在せず、支配階級である武士は城下町に居住しており、領民を個々に把握することが不可能であったため、中世と異なる人身の支配形態を必要としたのである。それらを記録としてとどめ、文書として表現したものが「人別帳(にんべつちょう)」などと称されるもので、村の人々すべてを家族ごとに旦那寺の檀家であることを証明するものであった。これは、「慶安御触書(けいあんのおふれがき)」にみえる領主と、さらに農民の関係と農民のあるべき姿を描き、それを農民自身に認識させるイデオロギー支配とともに、農民そのものの把握を確実なものとしたのである。村々におけるその具体例が「五人組帳前書(まえがき)」にみられる。